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のぼりりゅうかんめいほう




第174号 2018年6月1日更新

文字に観る不思議な世界





《 日本二百寺社巡り 第144回   奈良県奈良市  元興寺・喜光寺 》    


 

                                                 
元興寺
   
  
                     本堂(極楽坊本堂)


     
         本堂(奥は禅室)                    本堂


     
        禅室(極楽坊禅室)                    禅室

      
     
           東門                       北門


      
          法輪館                       小子房


     
    日本最古、飛鳥時代の瓦(禅室・本堂)              石仏碑


     
            石仏碑                     石燈籠
  

喜光寺

    
                        南大門


     
            本堂                     阿弥陀如来像

  
     
           行基堂                      弁財天

   
           
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元興寺

元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に
建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。

法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も
元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。
奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退した。

奈良市中院町所在で1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。
西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。法興寺の最後まで残存した僧房の遺構が現在の
元興寺にあたる。本尊は智光曼荼羅である。

奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇って
いた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南
にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境
内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川
町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。

元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末
期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。
曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するように
なった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺
極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に
改築したものである。

室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残
ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。金堂は再建されるが、これも
文明4年(1472年)の大風で倒壊し、これ以降金堂は再建されなかった。焼け跡に住宅が建てら
れていったこともあり、この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元
興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって
真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院とし
て栄えた。


伽藍

奈良時代の元興寺伽藍は、南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)
が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。
回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、小型の
塔が屋内に安置されていたものと思われる)。これらの建物はすべて焼失して現存しない。
なお、講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房(僧の居住する建物)があった。これは、東西に長
い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を鎌倉時代に改造したものが、現存する
本堂と禅室である。

《喜光寺》

喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領であ
ったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が
没した地とされている。法相宗の別格本山。

奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が
創建したと伝わる。
『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は養老5年(721年)寺史乙丸
なる人物が自らの住居を行基に寄進し、翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって
行基建立の四十九院の一つであるとされている。
寺地は平城京の右京三条三坊の九ノ坪、十ノ坪、十四ノ坪、十五ノ坪、十六ノ坪の計5坪を占め
ていたという。なお、現・喜光寺本堂の位置は、右京三条三坊の十五ノ坪にあたる。『大僧正舎
利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は
喜光寺から直線距離で7キロ離れた生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は
行基墓から出土した銅筒に記されていたものである。

1969年(昭和44年)に境内の発掘調査が行われ、現・喜光寺本堂は、奈良時代の創建本堂の
跡に建てられていることが確認された。創建金堂の基壇は東西が28メートル、南北が21メートル
の規模であった。そこから南に42メートル離れた場所に南大門跡とみられる建物跡があったが、
礎石は残されていなかった。

一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の
勅願により建てられたものという。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることか
ら「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な
光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』
によれば、延暦元年(782年)この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。

中世には興福寺の末寺となり、直接には興福寺の塔頭の一つであった一乗院に属した。
戦国時代の明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によっ
て焼き討ちされてしまい伽藍のほとんどが焼失したが、間もなく再建された。

明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は薬師寺が属する法相宗唯一の別格本山である。


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《 今月の撮影者・小倉 光 》

今月は久しぶりにひとりでの撮影行で、奈良市内の元興寺と喜光寺に参詣と撮影に行きました。
曇り空で時々晴れ間が垣間見えるという天気でしたが、梅雨入り前の季節でもあり観光客も多く
人の隙間をぬってお参りと撮影をさせていただきました。

 

 Team200とは
「のぼかん」の毎月1日更新のホームページ表紙を飾る、『全国200神社 仏閣紹介の撮影旅行隊』の 略称で、ホームページ第139号、寺社巡り第110回より活動しています。
宗派、信仰教義内容に捉われず、日本の津々浦々における信仰対象となっている、日本独特の建造物
と呼ばれる神社 仏閣の姿やその歴史をご紹介出来たらとの願いより、サポーターTeamが発足したの
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『日本二百寺社巡り』の、200寺社巡り達成予定が2023年1月予定❗  元気に楽しく挑戦します。
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