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のぼりりゅうかんめいほう




第181号 2019年1月1日更新

文字に観る不思議な世界





《 日本二百寺社巡り 第151回 福井県敦賀市 氣比(けひ)神宮 》    


 

                                                 
《氣比神宮》
   
  
                       大鳥居


    
          外拝殿遠景                     拝殿


    
           神門遠景                     神門


    
           中鳥居                     本殿
 

    
            手水舎                    絵馬殿


    
          神札授与所                   土公拝所


    
          九社之宮の鳥居                 神明両宮


    
           九社之宮                    猿田彦神社


    
           角鹿神社                     児宮

 
    
          大神下前神社                   東参道


    
            神水苑                   気比神宮由緒


《気比の松原》

    
                  気比の松原より敦賀湾を臨む
 

     
                      気比の松原      

           
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《氣比神宮

氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は、福井県敦賀市曙町にある神社。
式内社(名神大社)、越前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


概要

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸
道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への
玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて
朝廷から特に重視された神社であった。

『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)
・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世
には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領
を有していた。


社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建に
なる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要
文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝
える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えて
いる。

神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える。
気比大神/気比神(『古事記』
笥飯大神/笥飯神(『日本書紀』
気比神社(『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
気比大神宮(『続日本後紀』等)
気比神宮(『日本文徳天皇実録』等)

以上のほか、史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」などの呼称も見える。明治
維新後、明治28年(1895年)には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。
なお、気比の松原の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であ
ったことに因むとされる。

「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したと
いう。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することか
ら、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。
これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変
化したとする説もある。


歴史

創建・伝承
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土
公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐
出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中
で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇83月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて
気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、気比大神は玉姫命
に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。

その後大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を
合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。

また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記
されている。しかしながら、その後は持統天皇6年(692年)まで神宮に関する記事は見えないこ
とから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に気比神の祭祀権
が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。


神職

気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角
鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿国造の氏族ともい
われる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳、位置)が
残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀
後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。

記録上では宝亀7年(776年)に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える。
延暦23年(804年)[ 6]からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつなが
りを強めている。また承和2年(835年)の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』によれば
松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には承暦4年(1080年)
に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。

古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角
鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)。人物としては特に、南北朝の争乱で恒

良親王・尊良親王を奉じた大宮司の気比氏治・斉晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執
当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北
河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった。
この社家制度は、明治4年(1871年)の太政官布告を以て廃止されている。


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《 今月の撮影者・小倉 光 》

福井県を巡り古き立派な神社やお寺をお参りし、撮影してきました。
2019年の新年はパワースポットとして有名な敦賀市の氣比神宮を掲載します。
雨の後の澄んだ空気の中、歴史を感じさせる佇まいに圧倒されました。
 

 Team200とは
「のぼかん」の毎月1日更新のホームページ表紙を飾る、『全国200神社 仏閣紹介の撮影旅行隊』の 略称で、ホームページ第139号、寺社巡り第110回より活動しています。
宗派、信仰教義内容に捉われず、日本の津々浦々における信仰対象となっている、日本独特の建造物
と呼ばれる神社 仏閣の姿やその歴史をご紹介出来たらとの願いより、サポーターTeamが発足したの
です。
『日本二百寺社巡り』の、200寺社巡り達成予定が2023年1月予定❗  元気に楽しく挑戦します。
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我が子の内面がわかりづらい
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いきます

「文字の再発見」では講師の皆さん
の「文字の分析」を毎月発表して
います

『のぼかん』の文字の解釈が、
あーなるほど!と理解して
いただけることと思います

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