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のぼかん

のぼりです

 「きちんと帰り着くまで」

かれこれ10年程前の事になるが、さる会の終わり、帰り支度の部屋に主催者側の関係者2名が、少しお話しをと来られた。
その日はまだ体力も気持ちにも余裕があったので、どうぞと招き入れる。
当たり障りのない話しを5分ほどするうちに、唐突に『人生に絶望している青年がいるのだが、どう接し励ませばいいのだろうか』と、切り出された。
二人共通の知人を心配しての事のようだが、片方は切実にもう一人はまだ少し鷹揚な素振りを漂わせながらと、言葉遣いの違いはあっても二人にとってかなりの心配の種と化しているのがわかる。

教育者関係の会で、バリバリの中堅層の年代の二人が心配するのは、どうやら彼らの後輩でこの1年ほど休職中の人物らしい。
何事も当事者の名前を前提として、その『個性』を把握してから本題に取り組んでいくのが、『のぼかん』のセオリーだが、どう見ても頼り甲斐もあり、教育者としての情熱も感じられるような二人してという設定の方に興味があり、ここに至る二人の経緯を含め『楽しむべく』状況として、各自の見解をとことん聞いてみる。
『楽しく』とは事実の冷静な把握の徹底さを試す事であり、往々にしてある『感情論』ありきの展開に乗せられると、倍にも3倍にも本質に迫るまでの無駄がある。
この時も二人に、もっときちんとした客観性を持っての説明と理解が必要と感じたから、この場に来る以上はどこレベルの関係者なのか、直接に今後関わる覚悟があるのかないのかが、これから話す私の内容のレベルと深さが決まる。

すると案の定一人の人は、あくまで同僚としての認識や友情の範囲で接していると言い、片方も大学の後輩でたまたま親戚の縁故者でもあり、と心配はしても深入りするレベルか否かも含めての心配事であるのを正直に言葉にする。
関係者と称する人達の最も大事な事は、実はここの認識が自他に肝心なのである。
友情やお節介的な事を否定しているのではなく、聞き伝える覚悟の程がどの程度かを『私』が知りたいのである。
あくまで仲介であるとすれば本人に話すのが一番だが、時にこうと称してお節介イコール自身の自尊心の問題より、の人もある。
だからこそ他人の心配事で、と言う話はまずはその目前の相手の立ち位置なりをしっかり把握しないと、こちらが振り回される事になる。

今回の場合で言えば、私から聞いた事を言葉を、どうしたいのかが知りたいのである。
心配心配としながらも、本心ではのっぴきならぬ関係性にうんざりしている人もいるだろうし、その渦中にある自分を悲しむ人もあるだろうし、大概私がその当事者と話しましょうと先に切り出す方が、展開は早いのである。このように当事者が大人の場合はであるが。
今日の内容も結局、こちらに丸投げしたい一心での事と判断でき、さっきまでの4時間の座より、濃い現実感の話題の投げ掛けに、『教養者』としての無粋さに半ば呆れてしまう。
まぁ私に繋げば半分はお役ご免となるか、自分の面目の半分は果たせると思ったようだが、双方の立場で考えても、これが世の中だなとも言える。
つまりは人をひとり立ち直らせるとか、励まし伸ばすとか、言葉の軽さとは裏腹に物凄く大変な事で、自分で立つ気がないなんて決めつけている周囲の過剰な反応も、相まってややこしくなっている事が多い。

私は家族や仲間に囲まれて支えられての経験が薄い分、自分が立っていなければ今夜の食事にもありつけない。二、三日布団にくるまって泣いたとしても、四日目から働かなきゃ、誰もドアの外に丼の一つを置いてくれる訳でもなしと、引き摺る事の多さに苦悩しながらも、それを当然として背負いながら生きるのが人だと、そんな辛さの中で教えられた。
やり甲斐やプライドの消失が生きる気力を遠ざけた、と言いながら、涙ながらに話しては相手の時間をたっぷりと奪う事に、申し訳ないと言うプライドは見えない。
世話を受けながら、すまないけど、これではなくあれをと、ついでにあれもと、すっかりお世話される事に慣れきってしまっている人も多い。
どこかで誰かが自分の事を心配している事を当然の現実と、乗っかれる人もいる。

まぁ人は所詮弱いし一人で生きている訳ではないからの論を、見事に都合良く解釈出来る人も多い。
でも本当に可哀想なのは一人で生きる覚悟があると言いながら、家族も仲間もその必死さの中でこそ生き甲斐にもみくちゃにされているんだと言う事を理解出来ていないと言う事。
なんか平然といつもにこやかに暮らせるのが平和で、望む理想世界でと勘違いしているから、自分に係る問題を『特殊化』『特別化』し過ぎていると言う事。
強くないからとか弱すぎるからとか、人は弱いから必死にならざるを得ないと言う観点が、ハナから欠落しているから低く苦しい層でいつまでも生き蠢いている。
皆だいたい一緒の条件なのになぁと考えつけば、その時から『自らのために勝手に生きるための艱難辛苦なり』と腹も据わる。
いつしか二人の説明なのか言い訳なのかを聴きながら、そんな事を反芻していた。
わかりました、会いに行きますよと答えて日程等を打合わせる。
こうして今日の手帳の予定表の実態も、なかなか濃いもので閉じた。

講師達に朝家を出て帰り着くまでが仕事ですよ、と常々言う。
心配性の先生の言いたい事は、今日の評価に溺れるのではなく、今日の困難にひしがれるのではなく、きちんと出発点に立ち戻り明日に備える『継続の人生』を確認する日々を過ごしてください、という事。
生きていれば色々あるよ、ではなく何色と何色があったよ経験したよ、とまとめ理解し切る事が大事で、すると自分の容量の広さ大きさを知る事になるのです。
雑に適当にやり過ごすから、猥雑な精神世界に引き摺られる日々となって、自分がそこに絡め取られる事に気づいた時は周りに助けてもらわなきゃどうにもならない状況となってしまっている。

昔々若い頃年寄りが口うるさいと言うのも、そんな不安定な生活をしがちな若者を戒めるためであり、まぁ理解し切るのは遥か時間の過ぎてからとはなっても、数十年前の事を得心出来る機会が有ればそれはまた嬉しい現実でもある。
自分の容量はいかほどか、自分で測るのが人生と捉えれば、何かを詰め満たそうとしては、取り出し整理し捨ててはまた詰め込むを繰り返すものなのだろう。
日々にあっては毎日きちんと帰り着きなさい、今日出来る事は今日しなさい、出来るだけ。明日は明日の予定があるのです。
『ありきたりの世界こそ難しくまた苦しい、だがそれこそが真髄を取り巻く部位と位置する』

だからこそ忙しくても学び勉強し考えるのです。
いやはや人って凄い生きものですね。












初級科修了式・金山さん


初級科修了授業・金山さん


特別講座・午前の部


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