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のぼかん

のぼりです

「ひたむきに」

新年あけましておめでとうございます。
一日たりとも同じ日がないように、現実の今の一瞬の自覚とともに、暦の上で表されるこれからの一年を思い、励みと緊張を胸に精一杯頑張って参りましょうか。

各人の『個性を知る法』として「のぼかん」を世に出し、この3月で22年目に入ります。
当初は一年も持たずとか、二年はやはり無理だなとか、三年目は自身が心臓を患ったりとか、辞める理由止める理由はそれこそ連日の如く出現してくれては、むむむと力んでは歯噛みしたりしたものです。
それでも今目前に立つ人には、この人が伝える最後の人になるかも知れぬと、精一杯「のぼかん」世界をお伝えしようという覚悟の日々でした。

元々に「のぼかん」を編み出した根拠には、「意のままにならぬ己の生き様」の事実に翻弄され尽くされて来た過去があった訳で、苦労や苦悩の世界はそれこそ「朝飯前」ほどの慣れや心構えがあり、それでも日々の苦労や苦悩も、昨日のものとは違う新たな「手に負えぬもの」という見極めは、長年のそれが教え身につけさせてくれたものでしたから、頭の中はいつも冷静で有り続け、今出来得ることの最前線に「のぼかん」を置く事は当然に出来ていました。

無いものをねだり悲しむよりも、有るもの在る事を全面の価値として過ごす事は、ある意味これぞ「のぼかん」と思える気づきや刺激として常にあり、それだけに無心で迷わぬ日常には、徐々にこれしか無いと言う覚悟と固まってもいき、「動きながら変えてゆく」というフレーズも生まれました。
これは大概の人が何かの壁に突き当たった時、立ち止まり考え模索しては、教えを乞うたり真似たりしながら、向き合おうとする世界を普通としていますが、これとは異なる意図を持ちます。

この普通の世界には実は誰も指摘しない大きな欠落があります。
まず、大きな壁に突き当たった時という前提こそが問題であり、それは自分の現実において、この先を予測していない、し切れていないと言う事。それがその「大きさ」として出現するとなる。
いやいやいつも自分や家族の事を中心に考えているのだから、そこにはこの先何年かの予想図や設計図もある、だから考えが足りてないから大きな壁を前にしたら立ち止まるのが普通でしょ、と反論されるかも知れません。
そうですね、目一杯将来の事を見据えているなら、何故立ち止まるのですか、狼狽ては周りをキョロキョロ眺めては、あんな方法、こんな方法と考えては迷うのですか、となる。
つまり、将来を無論日常を油断なく見ているつもりが、考えているつもりが、狼狽えないつもりが、見つめる深さが足りない幅が足りないから、そうなるんですよと言う事。
それは自分の日常も大袈裟には人生をも、あまり深く考えていない、いや考えれていない、いやその考え方を知らないからだとなりますね。

つまり「情として誠意として真剣に」自他を見つめていると言っても、そもそも見つめる私が「私の個性って何、私の発想法ってどういうもの」という事が、わかっていないという事。
「知ってますわよ自分の性格くらい」と反論されても、その「性格」は何から判断されますかと問うと、ここまでの人生経験に決まっている、自覚としてもそうだし、家族や友人知人もそうと太鼓判を押すわ、と答えられる。
ではではと長ったらしく問うても仕方ないが、そう思う根拠には人生経験という果てしない時間や、沢山の主張の違いや誤解に塗れているという事になる。
自分の個性を知らずして、家族や周囲の個性を知らずして、いったいどれほど強固な「未来図」が描けるというのか。
それが、日常に「大きな壁」の出現を作り、またそれに戸惑う事に繋がる。

だからこそ先人に倣い、成功者、人格者の教えを崇めてそこを拠り所に生きるとする事になるのだが、それはそれで決して間違いと言うのではなく、その暗部に潜む「その都度乞う姿勢」に、自分の自信の無さが横たわっていると言う事。だから乞うたり真似たり倣ったりしながら、一喜一憂で壁に立ち向かうのだという事。
ましてや、そんな大人が親として先輩として、範をたれるとすれば、その事の趣旨は伝わっても、不安定な大人が安定を示せるはずもなく、として当然子には映る。
親子の仲ならばむしろ自信のある事、確信と持てる事の中身より、その根拠をまず示すだけでいいはずだ。
親が一生懸命に生きる姿にこそ最大の教えがあるのだから、知ったかぶりより周りの動向より、私は君にはこう思っている、だけで良いという事。親が考えるべき事は親が考え、子が考えるべき事は一緒に付き合ってでも、子にその結論を導き出させる事が何よりも望ましいと思う。

それもこれも大人も子どもも、まずは『互いの個性を知り理解する事』が肝要となる。
私の個性は経験上はこうでありそうでもある。だが何故こうでありそうであるのかは、問いもせずと言うより、問う事すら知らず、当然その「慣れ」もなかった、その環境がこれまでなかったという事に終始する。
だから始めに、人生とはの尊い先人や先祖の教えや学校教育や、宗教に出典を持つ導きなどを、最高の自分の価値観より上の位置にあるものとして置き、その下に自分の存在があった。
そこの結末には、喜怒哀楽や達観諦観という境地としての遊び慰める場所があり、やがては肉体の終焉への道のりにて、我が人生の完結を予想する事のみに他ならない。

多種多様な現代社会において、誰もが自由に時に野放図に語り生きる事を許され、どうせ自己責任でやればいいのでしょの文言が頼りない唯一の抑えとしてあり、そんな中での世暮らしをしながら成長していく。『互いの個性を知り理解し納得する』日常の中でも、ぶつかりや争いはある。それでもその事実のみを解決するしかその事を乗り越える事はないのはわかっているのだから、その間の感情や怒り悲しみと言った、混乱困惑の段階が排除されたり軽減出来るだけでも、随分とその心持ちは違ってくる。

この個性を知る事理解する事より発した人間関係があるならば、先の「大きな壁」を前にした想定の深みも幅も大きく異なる事に繋がってくるという事だ。
だからこそ、何が出現しようとも、自意識を持って立ち向かい歩く自覚を持って進み、時に以前の想定との違和感はその歩みの中で変え展開すれば良い、という事。
つまりは「決してその歩みは止めるべからず」となる。

人の肉体はいつでも生き活動しているが、心、精神の戸惑いや停止がその人の狼狽えや混乱や迷いの状態となる。
それを『個性を知る』事により、今とは大きく異なる、地に足のついたスケール感で自分のこの先の予想図も、きちんと持てるかも知れない。
それは如何なる障害を前にしても、その事実を深く広く知る意味を根拠として、立ち向かう力を溜めて前に向かえば良いと自らを励まし続ける事となる。

誰であっても自らの道はこの一本きりです。
その一本きりを、周りの人と理解し励まし合いながら生き続ける、いつかの日を迎えるその時間まで。

今年も肩の力を抜き、あの初期の頃のひたむきさの様に、ここまでの姿勢通りに、毎回の「のぼかん」の理論の展開に気力を集中して過ごして参ります。
宜しくお願いします。

 







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