「難しいとは言うけれど」
『のぼかん』の看板を世に出した時からこの「理論及び考え方」はいずれ社会の常識となるだろうと予感したものです。
その理由や根拠としたのは、前提とするものが誰もが理解している「日本語の文字」の構成の在り方とその意図の追究としているということ。自分の名前、家族の名前などもそう。
言葉、熟語、地名、感情の様すらも、その違いで文字表現を変えてその世界を伝える。
そして「誰もが生まれた時からその生を終えるまでを人生の範囲と自覚している」ということ。
「人は生まれながらにして、親兄弟姉妹、親戚、あるいは保護者と必ず関わり、それらの持つ個性や情報の影響を受けながらその人生をスタートしている」こと。
こうして「人はたくさんの情報を纏い生きている」ということ。
更に『のぼかん』の考え方には、個々間においての優劣をみたり差別的な価値は一切存在せず、「人は誰しも平等である」という観点から理論構成されている。
つまり、これだけの想定と準備から導き出した理論世界だから、日本語を理解している人なら誰もがその主張・展開を理解できるはず、だからいずれ常識として位置付くと思ったわけです。
こうして26年前事務所を構えて、私の『のぼかん』としての時間が始まりました。
「面白いわ」「当たるわ」「感動するわ」「初めての感覚」「これが大人として必要な初歩的知識かもね」と。
始めから評判は良く受け入れられて来た。
知りたい、学びたいとの声に押されて、初級科、中級科と作り講師コースまで整備した。
家族間の理解に活かせた、職場の雰囲気がよくなった、何より自身についての不安感が減り納得して生きてます、等々感想も良い。
しかし覚えるとなると難しい、難し過ぎるという声は絶えない。
もっと簡単に安易に出来ないのかと、こちらが驚くリクエストさえある。
50%わかれば充分ではの声も聴いた、自分の人生をそんなレベルの話しで聴きたいと思うか、もっと困難な時にそのレベルの人に人生を託す気持ちになりますかと尋ねると、嫌だねと全員が応える。
それはそうだろう、自分の人生は適当でいいとか、自分自身を安易なものと思っている人はいない。
誰もが大事で大切な存在でそれぞれの人生を自分なりに生きている。
ただこれまでまさかその人の発想法や、個性たる思慮の在り方を説明出来る学問としての世界がなかった。
そういう分別はもっと長く生きて、たくさんの経験をして達観できてから話せるものと信じて疑わなかった。(もっとも当人の価値観としての域内でだが。)
それを名前の文字より、という基本中の基本の私たる世界に、秘められている世界があった等と誰も知らなかった訳だから、知った驚きは大きいけれど、知ったからこその自覚の強さは出て来たけれども、じゃあ自分が解き明かしまとめてみましょうという学問というレベルでは、つい足が止まる人も続出する。
難しい、聴いたことのない言葉、聴けばわかるけど同じようには言えない等等。
それでいいと思うし、これで良かったのだとも思っています。
今まで無いからこそ、その新鮮さを知識として入れるには、当然時間もかかるし絶えない勉強も必要ですよね。
高いレベルの学問も同じ事が言えるのですから、段々と一人越え二人越えしながら、ゆっくり理解されて定着していくものでしょう。
ですから、難しいからと言って安易に薄めたり、他の事と混ぜこぜしたりすると、とてもじゃないが役には立たないし、下手すれば人の人生に悪影響を及ぼします。
ましてや嘯く本人が自分の主張を丸きり信じちゃいない。
自分はそんな目に遭いたくはないですよね、我が子や孫子に勧められませんよね、だったらされたら嫌なことはしないことです。
お金儲けの為に人を愚弄してはいけない、これは古今東西の戒めとして存在しています。
難しき事のある喜び。今はその場を離れたとしても、良いと思ったことは忘れません。
いつかまたきちんと向き合ってくれるものです。
だから難し過ぎて離れるのは、その時々の判断であり、人は結局何かしらの納得と理解を手にして人生としたいはずなのです。
ここには、貴方が貴方自身を理解し、家族全員を理解し、そこから各々がどうありたいかを、手応えを共にしながら学び考える世界として存在します。
『のぼかん』はそんな世界です、どうぞその難しさが自らの喜びと代わる事を楽しみに、人生勉強として取り組んでみてください。
ホームページを覗きますと、結構な数の講師が揃い日夜勉強しています、お気軽にお声がけいただきまずは体験してみられたらいかがでしょう。
創始者としての責任も、この理論的世界への納得と安心で、ここまで迷う事なく務めさせていただきました。
常識とする時期的長さは、一代が終わり二代目となって更に三代を要するのかそれは未だわかりません。しかしその条件とするのは、先に述べた通りと用意してありますから、いずれそういう風景の有り様を楽しみにしています。
難しいからこそ取り組もうとする事。難しいから逃げようとする事。逃げたけれども頭から離れず、今一度、二度挑んでみようかと思う事。
日本語がそこにある以上、人が人としてそこに立ち生きる以上、当然とある事が存在するというのは、実はそうと維持され常識とされ当然とされる価値として備わっている事であり、ありとあらゆる要件をも満たしているという事になります。
それに比べたら、「のぼかん」世界はまだまだ難しさの位置付けが低いのかもしれません。
つまりはその難しき世界を明快に説明してみせる力。そう理論の理解がまだまだ浅いのでしょう。
「人」の生きる世界は厳しく難しいものですよね。それでも自らを励まし一歩々と進む。この人の世の芯たる力の学びの一つの世界となるよう、これからも取り組んで参りましょう。
「難しい学び」と呼ばれている「のぼかん」
これはそこに向かう皆さんや私達のある意味誇りでもあります。
さあ丁寧に丁寧にがんばって参りましょう。








