「チャーリー&サマンサ」
『先生それってなかなか面白い解釈ですね、いいんじゃないですか』と会場の40才代の女性から声が飛ぶ。
私は思わず「どうもありがとうございます」と敬語で返事する。
ある程度の年齢になると、昔ほどの歳の差に対する壁は低くなるとの自論を持つが、それでも常識の範中内に維持しなきゃ、主張が別な方面へと広がってしまう事もある。
5年も顔馴染みだとすれば、馴れ馴れしさも親しみのうち、と好意的にみるのはその関係性を踏まえれば当然でもあり、逆にいつまでも改まった態度を取られると、なかなかその距離感は縮まる事なく過ごす、ともなる。
そんな関係性でも、同席する場所ではその使い分けはどちらかと言うと、年下の方が難しいのだろうが、多数の参加者の中で発言すると、周囲はその中身も含め、声の明瞭さや態度や服装までその言葉遣いまでをも、瞬時にチェックをする。自分のことは分かりづらくても他人のことは冷静にみれるものですよね。
その時粗相のないよう、相手や周囲に速やかに、その主張だけが伝わるようにと、発言者としての姿勢をも考えなさいと、昔は日常の中でそんな教えがあった気がする。
「お前先輩に対してその口の利き方はどうなんだ」、とか「あの電話での得意先への言葉遣いはおかしいだろう」とか、学校生活から始まっていた歳の差に対する畏敬の教えは、社会人になってモロに発揮されたと認識もしている。
昔々いつしか親しい先輩にも〇〇君で通用するようになり、あのさあれがさ、にも、ニコニコ対応する先輩には、逆に変に先輩と立てない方が喜ぶみたいと、結論付けてしまったりする。
それが相手の個性をも知らぬ怖さで、ある時、「お前さ黙ってれば随分なめてくれてるよね」、と豹変されたりすると、途端に過去を悔いても始まらぬ身には、へい、と一言頭を下げざるを得ない。
時間が過ぎ、立派な社会人と自他共に生きる年齢になった時、歳の差ではなく相手の職責上の関係性で、その概念は失せる事もある。
ましてやお得意先の担当が遥かに歳下だとしても、ハナから言葉遣いを間違ってはいけない現実に生きる。
先方がよくできたお人だとして、先にそこらは垣根を外していきましょうと言ってくれたとしても、尚更の事、最低限のその道を外しては、いついかなる所より反撃を真っ向から喰らうとも限らない。
シナリオは念入りに油断なくとそこでまた教える。
それでも人の一日の時間の中では、その鎧を降ろさなきゃ疲れ切ってしまう。そう言葉遣いもあれこれの我が身の忍耐の一部とすれば、何処かで発散の対象をと思うのかも知れない。
そんな時、好きでよく観た洋画の世界では『あらチャーリー』『なんだサマンサ居たの』と歳の差はあったとしても大抵タメ口である。そこからどんどん会話は核心へと進んでいく。
無論その状況下でそうだと言う事も、ああそこではちゃんと『さん』を付けるんだと、必要に応じて使い分ける基本にタメ口があるとしても、ああそこもここでも名前だけでいいんだと、臆病な私はホーと思ったりもするが、元来の思考として個性を尊重する事に自然さを持つ国では、そういう事なのかなと思ったりもする。
それよりも我々はタメ口は呼び捨てに通じると認識している節がある。
表であろうが裏であろうが、我が事を『呼び捨て』にされた、と聞いたら面白くない風土に生きて来た。だから「おいお前」と呼ばれて、一瞬カッとなるのと同じ心境でそれを聞く。
だいたいが呼んで捨てられたら、古今東西面白くないと思うのは共通してるだろうから、『呼び捨て』と言う言葉自体がおかしいのだろう。
やがて画面は双方「バーイ」と手を軽く振って別れる。日本なら「失礼します」と軽く頭を下げ挨拶して離れる。
だからこそ、外でも常に建前であるべきを良とするのか、いやいや何処に有っても本音を隠してはいけないという、文化的異なりにも起因するとも思い至る。
昨今の海外からの日本旅行者の増加も、昔から言われて来た、日本人の『オモテナシ』の精神に惹かれる一因たる、本音を建前に織り込ませながら接する態度に、そんな遠回りな精神を、日本人全体が持つ事に驚嘆する、故に、益々日本という国の奥深さを肌で知り、認識としてもらって来たという事だろう。
つまり尊重や謙譲の美徳を教える国家故に、その根本の教えたる、年長者は敬いつつ、年下の範たれとの教育があり、自然とそこに当然の空気感が育ってあった。
こうして、それでも様々な社会の変化や変わらぬ現実の『掟』の中に、歳の差よりも『権力者』を遇する面もあり、教育や文化の多岐に亘る流入に、もう少し自分らしく自然体にと、敢えて経験や能力の世界を前にして、正直らしさを追求した時、『タメ口有り』と優しい醸成もなされて来たのだと思う。
冒頭の発言者とのやり取り、そう最近はこんな事がよくある。
昔風で言えばどちらが年長かね、偉いんかね、となるのだが、言葉遣いの変遷を思うと、怒ったり、笑ったりいちいち首を捻ってたら、本当に首から肩までの筋がおかしくなってしまう。
『正直さはタメ口の世界に有り』なのか、それとも言葉の活用法が変わって来たのか、とにかく言わんとするところをこちらが汲み取って理解するように努めている。
確かに「あの言葉に感動しました」より、「あの言葉を聴いたら過去の事を想い出し何だか胸がキュンとしたのね、だからついそれを伝えたくて」の方が現実味がある。
私自身、伝えたい事がきちんとそう有る事が目的だから、その感想についての表現法よりも中身を気にするとすれば、丁寧語だろうがタメ口だろうが、別段構わないので有る。
人生何でもそうだが、意図して発した方が、その事の本質はやがて抱え込むのである。
その場での批評が大きく影響があるように思っても、言われた側はただの受け取り役だから、所詮一喜一憂するのみでそう展開が劇的に変わることはまずない。
あくまで自分の仕事の確認納得に終始するしかない。
こうして人の世のうねりの間には、様々な事実や感情が入り混じっており、それでも老若男女いつかは自分の気持ちを正直に、話し伝えと思いつつも発した言葉を反芻したり、また同じ言葉に傷ついたり喜んだりと、現実の中にはあらゆる思考の世界が潜む事を、身をもって知り成長していくのだろう。
連れやダチ、タメに相方と仲間や等しい関係性の呼称も変化はあるが、対等な関係故に本音が通じるとの思いは、世代を越えても変わらずあるのでしょう。
『タメ口は正直さなり』
生きる過程の一つであるのは間違いない。








