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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[二十一]

「北のおもいで」
野の百合の彼方に
紫の島陰
夏の海は優しく
歩いても行けると
旅の心は白夜彷徨い
夢と覚えて涙ぐむ

しらじらと夜明けて
とろとろと日暮れて
砂に恋を埋めた
あの人を偲べば
旅の心は急ぐ季節に
歌も忘れて立ち尽くす

冬の月見上げて
唇に火の酒
岸に寄せる流氷
人声に思えて
旅の心に翼もたせて
月に躍れと口ずさむ
月に躍れと口ずさむ

つい旅へ想いを寄せればこの歌詞を呟いています。

私の旅と称しますのは、数日間の出張に併せて行った先々で半日ほど脚を伸ばす事もあれば、一泊二泊を予定して組む時があるくらいで、独り身のこういう面の気楽さには、ここまで生を得たゆえの歓びと共に、何より見知らぬ場所に行ってみたい、その思いが尽きずあります。

十数年前ある地方の若手経営者の会に呼ばれ、「会社の業績が傾く、あるいは再起を図る際の心の持ち方」をテーマとされました。
今日はその時の内容をかいつまんで話してみたいと思います。
私の場合家業の倒産の結果、逃げられぬ現実に在りそれでも可能な限りの小さな右往左往で、自身の歩地を少しずつ少しずつ広げ挽回した事を思い出します。
本意と決して認めぬままに負け組の烙印を受け、どう考えても成るはずもない局面にただ々居住まいながらも、不細工でも不恰好でもひたすら耐えて、無駄口は叩かずただ黙って足元の延長線だけを見て、気の遠くなるような陽炎の先の未来を思い、しっかり息を吸いゆっくりゆっくりそれを吐く事にのみ集中する。それだけは自由に出来るんだと日々に何度も確認しました。
世間にも誰にも相手もされず指し図もされず、咎められもしないただ負の重積だけを背負い続ける世界。それはなに人であっても倒産したら必ず持つ可能性のある世界でもあります。

右に左にと倒れそうになりながらもその都度足の指に力を入れて踏ん張る。そんな我慢の日常も数年経つと自分は変わらないのに、その月日の間に先方に変化が起きたりもする。 すると自分との関係性が微妙に変化せざるを得なくなる、当然日を追うごとに昨日までの敵がここから先は味方となる可能性が段々と明瞭になって来たりもする。
たとえ小さな関係性でも、こうして一つの取引先との関係が変化すると、その流れは小さいが確実なものだから、徐々に徐々にと影響を与え取り巻く環境自体がやがて明らかに変わってくる。
『人は我慢しろひたすら我慢して努力すれば、そのうちいい日もある、希望は捨てるなよ』という世界は、こんな理屈でやがて様変わりしていったりもするという事です。
自分の努力なんぞやって当たり前で、しかし思い通りに至らぬ届かぬのは当然なのがこの社会の深さや広さ。 それでも自分の年月の経過と共に周りが変わる事もまた同一という理屈も存在するのです。

つまりはそこまで信じ抱き続けるものがあれば、通じなかった世界も、環境の変化と共に通じる道が開けても来る、という事。
そこまでその気持ちを動きを大事に抱き守り続ける事にこそ、自分の本分とする大事さがあるという事で、後日周囲の人はそれを『諦めず誇りを捨てずに来た人』と評価したりするのですね。

だから厳しく苦しいからといって、右往左往の程度を激しく超えたりするものなら、その根本すらも自らが捨ててしまうのと同じであるから、『我慢しろ、信じて待て』と励ます声があるのも、その現実の間違いのない一面を表し含んでいるのです。
人は苦しいとつい劇的世界の変化を夢見たりします、でもそれは到底夢であり、その地に足は着きようもありません。
いや世の流行りの方法をきちんと理解して取り入れれば可能と、周りは一段と囃し立てます。
しかし其れ等は、どこまで いっても自分の事情やその組成に対して適合する内容ではなく、そもそも一つの成功例ごくごく限定的な成功例でしかなく、ある意味其れ等の一瞬一瞬一コマ一コマを切り取った話ですから、その方法だけで追い求めても所詮は夢、砂塵と舞う砂粒の如く、結果は虚しさと痛みだけでその手には何も残りません。

だから自らの信じようとした道があるならば、ひたすら真摯にその事と常に向き合っては考え続け歩かせてもらう事なんです。
歩くのは自分ですが、そこには道が必ずあるのですから、歩かせてもらうという覚悟です。 俺が私がとそこに拘っているから、ハナからズレた道を進もうとするのです。
そんな道はすぐに行き止まりになります。だから素直に謙虚が自身に最も無駄な負荷をかけないのです。それでも人生は深くて広いもので、そこに至ってもまだ横にも斜めにも道はあるから、人が歩く事に終わりはありません。

そんな時冷静にきちんと考えて、歩き続けながら自分の行きたい行くべきと思う道に方向修正すれば良いと思います。立ち止まってはいけません。

絶対と言えるのは引き返す事も、過去をやり直す事も出来ないのですから、きちんとそこまでを「理論的」に整理し切り納得する事。すると人は前方向にある可能性の道のみをしっかり考え確認しながら歩く事に集中が始まります。
すると謙虚に自力で考え踏み出した事は、そこまで知らぬ刺激的な世界でもあるはずです。誰であってもいくら想定しても、そのレベルの空気はそこに行かなきゃ理解出来ないのですから、行けたらわかる刺激的世界となります。
ですから本意であろうが不本意だろうが、状況が大きく変わってもまずは自分の立ち位置を理解し確認して納得する事。そうやってゆっくり息を吐く事を常とし微動しながら考える一つ一つを理解しきっていくのです。そうこれがゆっくり動きながら考える世界です。そうやって腹を据えながらその生き方を続けると、間違いなく状況の変化を知り意味を理解して拡がった歩地でまた踏ん張る事が活力となり変わっていきます。

ざっとこんな内容だったでしょうか。二日間における講義と相談会を終えて、まだ三十代や四十代の男性十人程との、お茶会での中身もつらつら思い出しました。親の代を継いだが上手くいかず苦労ばかりしていると嘆く者、起業したはいいものの、それまでの応援が突然途切れて立ち往生している者、社業は落ち着いてはいるものの常に人事的内紛の火種を抱えていると困惑する者。一人として内心にお気楽さは持てていないようです。
そんな面々が対応を聞こうと集まっている。
あの時を思い出しては、なんだかなぁと呟きます。

それと同じくして列車はJR北陸本線福井駅に到着しました。
以前から気になっていた鯖寿司の店に行きます。少し歩けば夕方の開店に間に合います。次の名古屋行きの時間は調べてはないけれども、食べたら今日は三日ぶりに帰ろうと思います。 そう帰る場所さえ有れば、寝る場所さえあれば、人の生き様は何とかなるものです。これは実体験としてそうと言えます。少しの歩地のある事を自覚すればなんとかなる。

どうぞ皆さんも、例えこの後の人生がどんな現実となろうとも、何かを志すもの有れば諦めずじっと我慢してまずはしっかり食べ寝て考えて、いつかの未来を楽しみに歩きましょう。 立ち止まりキョロキョロオロオロする必要は全くありません。

あなたが年月を過ごす、均しく周りも年月を経る。簡単な理屈です。
時間と共にあなたの境遇も変わり周りのそれも変わる、それが世の必然です。
諦めてはいけません。 その時々の事実をきちんと整理し、自らも含めて取り巻く「個性」を知り、全体を「理論的」に考えゆっくり動けば必ずなんとかなるはずです。
一日の最後の仕上げは鏡に向かって「笑顔の確認」です。
自然に「笑顔」が出せる頃には手応えのある行動がとれているはずです。
さあ笑ってみてください。










初級科講師資格試験合格証書授与式
松田さん


初級科修了式・加藤さん


初級科修了式・松縄さん


初級科修了式・松縄さん、加藤さん


初級科修了授業・松縄さん、加藤さん


勉強会


初級科修了式・島さん


特別講座・午前の部


特別講座・午前の部


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特別講座・午後の部


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