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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[二十九]

「独り暮らしの楽しみ」
たまに題の通りの質問をされます。
このご時世、正に『高齢化社会』の現実がまざまざとあり、中でも『独り暮らし』の増加も顕著だと何かで読んだ覚えもあり。確かにそんな『独り暮らし』の増加の雰囲気は各所で見られるようになりましたね、というかいつの間にか増えてるという感じ。
道行く時スーパーでの買い物時、一人で動くのが普通かも知れないけど、男性一人で買い物をする人の数はグンと増えた気もします。
俗にいう『団塊の世代』の老齢化と共に、一挙にそんな気配に包まれて来たといいますか、以前統計より発せられた世相感が、間違いなく現実となってるように思います。
そんな中でも諸々の訳あり事情ありの自然さで、そんな年齢者の1人行動する人の多さが最早世間の表情にもなっています。

都会では若者から壮年まで、まだまだ活気の尽きる気配はありませんが、仕事柄遠出するとその折り折り町並を通り抜ける際目にするのはお年寄りの姿ばかり。
たまに若い人がいると、おっと驚いてしまう。
新鮮に映ってしまうのですね。
ましてや子ども達の姿を発見すると、貴重な機会とばかりに、軽くブレーキを踏みながら横目にして通り過ぎる。
こんな大袈裟な表現であってもクレームを入れられる事もなく、当たり前の風景として道ゆく人目につく人はほぼほぼお年寄り。
そう我が輩もその一員ではあるのですが、恐らく全員が同じように見渡しては、若い人っていないよねと思うはずだと理解しています。

さてそんな中での楽しみって何ですかと問われます。単純に趣味や嗜好に依ることか、心構え的なことかと設定に迷いますが、若者や家族持ちから見ると、普通に独り暮らしの際の心得はやってみないとわからないものとしてあるから、まぁ私のあくまで意見としてとことわり話します。
それでも他人に語る事でもないと思ってはいるので、つい先方の真面目さ真剣さにつられて話しています。

私はかれこれ40年ほどこんな調子ですから、一瞬昔を思い出しても、紆余曲折あった中でも、何かの呪縛から解き離れたという感覚もなく、ある日を境に選択したのがこんな暮らし、生き方だったという事ですかね。
勿論遡って掘り下げれば山ほどの事柄は出て来ますが、敢えてそんな事はしません。
無論当初は感情の定まらぬ渦中で、悶々の時期もあったと覚えてはいますが、時の重ねの良いところは、良い事だけを覚えておけば、悪い苦しい事など、いつの間にか削れ薄れていくと言う事。口にするのは良い事だけ。どうにもならなかった苦しい事柄は口にしないと言う事。
これが逆なら離れて尚過去を引き摺り続けて、帰らぬ時間を巻き戻すがごとく苦しみ続けたであろうと思います。
新生活や新環境において、尚過去を引き摺り続けるのはそう生やさしいエネルギーでは出来ないだろうし、ただでさえ今の居場所の危うい状況にあっては、せめて心穏やかな一瞬を大事にしなきゃ再出発など成し得ないと思いますね。

『山ほどの混乱がある時は、まずは目前の一つ一つを片付ける』 そう一人と言えど、そこに快適さや穏やかな一瞬を見出さないと、続けていける手応えも自信も育つことはありません。
すると独り暮らしでもやるべき事、やっておいた方が先々の段取りが良いと思うことは沢山出現して来ます。
こうして敢えてというか、せっかく得た一人の環境をひたすら大事にしたいと思うなら、新たな負荷をこさえる事を避けますね、つまりやれる事はサッサと片付ける。
その時その事に例え夢や希望は被らなくても、自分の負荷をひたすら処理するうちに、不思議ですがそれは自然と湧いても寄っても来るものと思っています。
つまり前向きな思考や状況を常に準備しておく事と同じなのですね。
そこに色んな試されるかのような状況も、情報も寄ったり降って来たりする。すると無心さの中にだんだんと興味を覚えると共に、新しい自分の意識の幅の拡がりをも感じてしまう。

つまり自分は何ら変わらぬ以前の延長上ながらも、明らかに新たな分野への関心を持つ自分を知る。それは間違いなく自分が楽しいと感じてる事を意味する。
こうして一人問答の日々を過ごしながらも、誰よりも厳しい自分の中の自分を問い正す声を聴きながら、また日を過ごす。
人は考え方次第で自分を励ますことも貶める事も自分だと確認し納得する、これに気づけば本当は自分の人生を誰も邪魔するものではないと知る、そしてそれまでの不幸感は自分の心がそうと決めつけていたからこそが発端とわかる。
こんな事を考え知り納得するとただただ安心と出来る。
つまりは自分の力で自分自身の日々を生き造れるという確信が芽生える。

こんな風に家で1人の時間を好きに使えているというか、思った事を迷わずやれて、ダメだなと思えばサッとやめれる。そんな背景の中でやるべき事に向き合う、考えるべき事を考える。
そういうわけで、大きく言うと一人の時間は『自分の好きな時間』とするという事、マイナスの感情を極力排し、自分の気楽さを確保する為には、やるべき事をまずは片付けるという事ですね。
人の心には気分の波があります。良い事があり、幸福感に満たされることがあると、この上なく幸せですが、この感情は維持出来るものではなく、それ以上の膨らみもありません。自然にそのテンションは下がり続けて普段通りに落ち着きます。 普段通りならなんら問題はないわけで、困るのはマイナスの状況や感情に苛まれた時、これはほっといても自然に解消されるものではありませんね。

何とかしないとその案件も感情もますます重くその存在意義を増します。
幾ら楽しいことや嬉しい事を詰め込んだとしても、それは片隅に追いやってもその存在感は変わりませんね。だから人はマイナスの案件には、必ず動き考え善処しようとします。そうやって片付け終わると普段通りが戻って来ます。
現実とはそんな幸福感と不幸感が交互に起こるものですね。そんな時は幸福感はほっといてもいいが、不幸感は排する。
それを独り身で味わい繰り返して慣れて行くと、不幸感の芽は早く摘んでたほうがいいと覚えます。
そうして『独り身のプロ』と自覚できる頃は、出来るだけ自らの心の波の振幅は抑えた方がいいと結論づけてはそうと心得ます。そう『昂ぶり過ぎず嘆き過ぎず』と。

そんな心情より発した姿勢が、『淡々と過ごす』と映るのだと思います。
つまりリズム感ですね、自分の心臓もそうであるように、リズム良く日々を刻めば、自分は普通であり側には快適そうに映る。タンタンの響きを重いとは思いません。
その心の内には諸々あったとしても、自らがリズム良くを快適と知っていれば、動きも考え方も自分の意思として素直に認められるとも思います。
『楽しむ』という言葉の意味とは、ずいぶん距離感があるかも知れませんが、気分よく過ごすそうと出来れば満足かなと思えるのでしょう。
そう年老いてそして独り身の暮らしの人もまだまだ増えていくのでしょうが、きっと皆さんも意識してあるいは身に染み込んだ無意識さで、リズム良く生きる快適さを知ってらっしゃると思います。

この何十年か人と人との距離感が希薄になって来たという文言に触れる事もありました。ある意味それは当然としてこの社会現象で想像された事でもあり、それが問題課題とする側には、社会との隔絶、他者とのコミュニケーション不足が社会における不幸感の増長と観るのでしょうが、決してそんな表面上に映る事よりも、当事者はもっと社会に対する視点も意思もはっきり持てていると思います。
『独り暮らし』は自分に掛かる全ての事の把握、理解に長けています。
家族や仲間内で分担してということもなく、一人の世界は一人で片付けるが普通ですから、社会の意義や他者との尊重を思わずしてやれるものでもありません。
だから『独り暮らし』の人は元気だと思ってください。身体はそこまでなくても、その心はとても元気だと知ってください。

一々反応したり発しなくても元気ですから、過剰な労りや寄り添いはやめて、日本の未来とか社会の改善策とか、政治一括りにせず、『個性の尊重』上の人の行く末社会の行く末を論ずる『老人活用』の風潮の拡がりをお願いしたいものです。
『独り暮らし』は裏も表も知っています。老人は世の中の弱さも強さも知っています。知ってるからこそ未来に対する期待は純粋に持っていると思います。
人としての経験者溢れる社会、活用しない手はありますまい。











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