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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[十]

「一人の時」
街中の猥雑さを抜けてそこだけ異次元の様な数種の木々の生い茂る一画に差し掛かかります。サーっと涼の風が顔を撫でていく。暫し立ち止まる。見ると古い小さな木製のベンチがある。時計を確認し束の間迷いながらも結局腰を降ろします。先ほどまでこの夏の常態化した高温下を歩き、汗で背に貼り付いたワイシャツのボタンを一個外す。指先が少し痺れて思うようにいかず少し苛つきます。数年前までは『のぼかん』の仕事は大小を問わず、夏冬問わず必ずネクタイ着用を我が義務としていたが、昨夏からその気魂も欠け出しては、今や遅かりしクールビズでと夏のネクタイ着用はしなくなった。
人前に立ち『文字』だけを対象として『のぼかん』を説明しお話しする内に、脳がフル回転し何かの物質が湧き出てくるのか、真冬でも頭や顔にうっすら汗をかく。
だから冬は幾ら寒くても始まったら、どちらかというと心地よくその時間を過ごす。夏は最早主催者側も心得たもので、冷房の部屋にあっても背中からサーキュレーターの強を当ててくれる。けれども30分1時間も経つと参加者側は冷えて来るらしく、その微妙な意思表示を汲み取っては、主催者側がスイッチで室温調整を時間内に数回やるのが私の位置からは見える。

話しを始めたら字の理論に基づく『のぼかん』話しは滑らかに事が進む。
故に有難くも『仕事』の時間経過は早く感じるのが、この24年の変わらぬ感想。
2、3名であろうが100名であろうが、緊張で上がる事はない。始めの1分間位の挨拶の間でその日の声の張りや通り具合を確かめてその場で合わせるようにする。
その位の人数まではマイクは使わないので、決められた時間分のスタミナは声の調整をしている間に確認出来る。
今より若い頃に発した心臓の病気時は、日による体調の変化を考慮しながら『普通』を装うので、内心の緊張感を仕事内容の責務とともに、かなり自覚はしていたが元来の呑気さは「これを終わらせて、帰り着くまで倒れなかったら良し」としようというのを毎回のテーマにしていたから、始まって5分もするとその緊張など忘れて集中出来ていくのがわかる。これを繰り返すうちに、普段の生活より『のぼかん』を話している時の方が、熱も眩暈も出ないし次第に『のぼかん』をやっていると心身に調子が改善されると段々確信が増していく。

これは何だろうかとまた得意のアレコレの問答を自分に課す事を繰り返しているうちに、どうやらよくお客さんが『のぼかん』を体験して相談して納得して帰り、生活にその納得した事を持込み活かすとあれよと言う間に案件が片付くのは元より、私が元気に健康体に戻りましたとのお話をいただいたりしていたが、それは理論的に納得して生きる事でストレスや緊張やいらぬ感情から解放され、まずは気分が良くなり身体もその気楽さから楽になるんでしょうねと応える。
これが話す側の私にも同時に起こるんだなと更なる納得と育っていく。
「人に向かいその人にとって良い話しをすれば、理論的に良い話しを紡ぐ私にも良い気が育ち膨らむ。但し理論として誰が見聞いても納得する話であり、私の観念話にそれはない。」
何せ普段の世事に向き合う1時間は長く感じるが、『のぼかん』のそれは確かに早いのだ。迷いも気負いもなく集中し切っている分、夜中の頭痛、朝の目眩も『仕事中』に消失するのだから、これ以上の事はないと思えてならない。
人も癒すが私も調整させてもらえる、それを論理的にだ。

『のぼかん』はキャラや見てくれを売る「タレント」を目指すわけではなく、ここまで日本に存在しなかった論法としての『のぼかん』を用いて現実に生きる人々の理解と解決への道のりをお伝えする仕事であるし、同時にそれが果たされたら世に周知されていく事だろうという論拠に基づく。だが中身は個々の『個性を知る』事を目的にしての諸々の解決を、その一つにあげるから、個人相談がまずの大事な仕事と位置付ける。一人一人は皆さん違うのだから、それは一人一人と向き合い語る事となる。だから『のぼかん』は派手な仕事としては出来ないし、その辺りに意欲を湧かせると余計で無駄な事をやり、結局遠回りしたり本筋とかけ離れた事をお客さんに強いる危険性もあるから、講師には本筋はきちんと守っていただく。
何の世界でもあるのだろうが、慣れたら独自の組み合わせでのオリジナリティでなんて馬鹿な考えを持つ者は、所詮はお客さんより自分の事を売り込む事に重きを置いている訳だから、本末転倒で非常に見苦しいものと映る。
タレントになりたきゃ他の世界に行けばいい事で『のぼかん』のみならず、お客さんの存在を利用して、『自分を売り込む事』は、大変に下品な話しだよと常々に思っては教える。
『のぼかん』が評価されることに慣れてくると、駆使する私の力だ能力だと勘違いが起こるのは、よそにもたくさんある事で、少なくとも『のぼかんの講師達』には、そういった面も含めて『心身の上品さ』を求め期待もしています。
それがまずは「のぼかん理論」の提供を全国の皆さんの前でどの講師が担ったとしても、ほぼほぼ均一であることが望ましい訳で、それが堂々と仕事としてやれる根拠ともなります。

まあ24年やって来ての希望は講師皆がいつしか、立派に世に認められて、その実力が世の全方位に照らされても、淡々とこなし生きる我が講師達。を思い描くととても幸せな時間に浸れる。
そういう意味で、講師個人が大いに勉強に仕事に励み、『のぼかん』の為にも汗をかき、仲間の為にと常に腐心しながらの精神こそが、必然どんなお客さんを前にしても動じぬ強い心を養うと思います。まさに「下積みにこそ人の強さの土壌となりにけり」ですね。『のぼかん』はお客さんのそして私達の心身さえも調整し改善してもくれるのだから、目先の事にとらわれず、もっと自分の大きな先を見据えながら励んでいただけたら結構な事と思っています。

この夏の暑さは、普段私に話しかけて来ることもない、冷静で穏やかな我が家の大家さんも、見かけた私に寄って来ては、この日本この先どうなっちゃうんでしょうと悲しい顔をされる。
異常気象とは一時期的なものとおそらく誰もが、思っていただろうけど、『異常』とはある種の定着や固定化を示す文字でもあるとも『のぼかん』では読めるから、そうだな異常の世界に突入という事であればいたたまれない気分ともなる。
こんな地球規模の自然の変貌が四季を巡っての一年の繰り返しとしていたこの日本の気楽さ、呑気さ、鈍感さでも、やっと『温暖化の脅威』の現実にさらされては怖れてのちの腹の座った政府、国の施策を待つことになるのだろうが、昨今の政治家の残念さのオンパレードには、諦観の念の存在も否めない。
ここの所はここまで古く長く生きて来られた先輩諸氏と共有出来るだろうと思います。

珍しい木製の椅子での涼も胸もとに入り込んだ黒蟻の出現でふと目覚める。
足元に向きの変わった陽がまた熱く刺して来そうになり、慌てて時計を見ると20分もここでウツラウツラと休んでいた事になる。
「有り得んなぁ」と呟きながらも、初体験でちょっと得した気分もある。
帰っても一人だが、自分で予定していた時間迄には帰りたい。
『朝出て話しをしてきちんと帰り着くまでが仕事』
そうまだ仕事中なのだ、きちんと帰り着いて本日の仕事終わりといたしましょうか。

あちこちと身体が弱ったり駄目になる所も少しずつ増えては来るけれども、精神は年々と生涯で最も落ち着いていると思えて、大変有り難いと素直に喜んでいます。
そうこれからは『素直に喜ぶ』、それ以上の感慨は口にもせず思う事もせずにおこう。いざ痛む膝をさすっては立ち上がり喜んで帰るといたしましょう。









初級科修了式・吉田さん


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