「シトシト雨が」
JR横浜線のとある駅で降りる。50数年前の朧げな記憶も少しの感傷も瞬く間に吹き飛ぶ。
まるで知らない街となり、何の騒音かもわからぬ唸りに飲み込まれ押されながら、指定された駅近くのホテルのロビーに急ぐ。
どこをどうやって調べ上げたのか、先週初めての就職先であった横浜の会社の上司から、「会いたい」とだけの連絡があった。
2年ほど在籍しただけだが、私にとっては今振り返ってみても、唯一純粋に仕事の楽しみを教えてもらい、のめり込めた職場であった。
時計などのスプリングを製造する会社で、その形状に応じた製造器具を作る現場で、様々な鋼材から設計図に基づき100分の1ミリの精度の器具を作る。旋盤あり研磨機あり焼き入れし、完全仕上げ迄を1人でやる。そこを5、6名の職人さんだけでその現場を回していた。そこに配属になった。
学校ではイロハのイ位の知識は習ったけれども皆目素人レベルで、ただ言われ教えられる事を次々とこなしていくのが精一杯。
職人さん同士もライバルだから他人が教えてる時には口は挟まないが、自分が担当して教えることになると、とたんに前の人のやり方も含めてガンガンとにかく攻めて攻めて覚えさせようとする。
5階建ての製造工場の1階が我ら治工具部の職場だったから、後日聞いた話では1階のあの新人が何日持つかと、よその部では密かに賭けの対象となっていたらしい。
それほど曰く付きの現場で、超個性派の職人さん達の一種閉ざされた部署であるが、この職人さん達のそれぞれの個性で仕上げる技術は超一流だったらしく、隣に大学の工学部の研究室の一部をわざわざ置く位、学術的には面白い職場だったようだ。
そんな場所に放り込まれた私はとにかく朝から夜遅くまで追いまくられながらも、何とか指示に応えようと必死で、後々他の大会社に就職した同級生らの厚遇優遇ぶりの現実とすると、まさに天地の差を思わずにはいられなかったが、不思議とそんな空気の現場が好きであった。
怖い職人さんに当初はビビる気もあったけど、仕事の内容については鬼の形相で指導されるが、一つの工程が終わると何の感想も文句もなく余計な接触もない。ここをこうしてああしてこれからはやれよ、とごく全うな話ばかり。
むしろ知らない鉄素材や工作機械の現実、設計図に潜む取り組み方の工夫など、沢山惜しむ事なく教えてくれていると思えるから楽しいのである。
Aさんに習っては次Bさんにの時、前の件をAさんに聞こうとしても聞こえないふりをする、Bさんにそれを話してもあいつは変わってるから、また次の機会にしか聞けないね、で終わる。
それでも会社の中枢部を我ら治工具部が担ってるプライドがあるから、部全体はいつでも満点評価で他の部署の追随を許さない。
おかげさまでそこに水の合った私は、初めて逃げ出さなかった新人として認められ、以後は個々にあれこれ私語も交えてくれるようにもなり、何より一端の職人気取りが格好になるくらい、陰に日向に彼等が教え指導してくれるようになった。
だからこの先10年は現行の7~8人体制でやると会社も決定さえしてくれた。
その頃まだ30代の製造部長だが取締役でもあったのが、今日会う予定の人であった。
新幹線内は元より話が来て以来昔を思い出してもいたが、週休は日曜だけの時代で、残業なんて100時間はザラの現場にいても、たまに休める日曜日はあちこち寮生と出かける。
すると若い田舎者だから色んなことをやらかす。逮捕こそされないが様々な事で家庭裁判所出頭などもあった。
当然それは会社の総務に通知も行ったから出頭の日になると、同じ駅に部長が現れる。
どうしたんですかと聞くと、馬鹿野郎未成年のお前の保護監督者として、俺も行くんだよと言う。
へー以外の気の利いたことも言えないので、頭も下げもせず殊勝な顔も出来ず、とにかく半日位付き合ってもらう。
すると熊みたいに大きい部長がヘイコラヘイコラ係官かなんかに頭を下げている。
いい人だなぁと素直に思える。
案の定帰りは全くお前って奴はと言いながら昼メシまで奢ってくれて、週末飲むかとまで誘う。
ハイとだけ返事して会社に戻り現場に入っていると、事務所の同期の女の子が、部長がニコニコしながら、アイツは俺がペコペコしてるのに、ニヤニヤして全く反省の素振りがないと、事務所でひとしきり吠えてたと笑って教えに来た。
お礼位言ったんでしょうと聞くから、いやなんせ初めてだからどう言えばいいかわからないから、お礼は言わなかった。と言うと、やっぱりねと踵を返す。
そう部長は中味も聞かなかったし、二度とやるなとか困らせないでくれとか一言も言わない。
自分も大学のレスリング部出身で酒好きで、喧嘩もよくやり、留置場からご出勤なることも一度や二度ではないと、噂は聞いてたからまぁ優しいのだろう。
退社するまで何かと目をかけてもらえて職場の人達との事も含めて、私の人生の純粋に刻まれた時代の一コマでした。
その部長がロビーで立って待っていた。80歳は過ぎてるだろうに、禿げ上がり少し萎んだ体ながら、声も太く不器用な笑顔で50年振りの再会をお互いに喜べた。
違うと言えば鼻水と涙を隠さず、お前に会いたかった会いたかったと繰り返す。
そう昔から私の呼び名はお前だった。
とその時後ろから奥様らしき人と、見るからご長男らしき二人が側に立った。ご長男とは彼が低学年の時か何度か遊び相手をしたこともあった。
ご長男が事の次第をかいつまんで話してくれた。
会社を辞めて帰郷し5年経った時我が家は倒産した。
それを聞きつけた部長はすぐに会社御用達の調査事務所の係員を派遣して鹿児島の我が家の調査に入ったらしい。既に当時から優秀な部長は経営陣の一角でもあったけど、私が辞めたそれから3年後に代表取締役に就任されたらしい。
その当時から年に一回は我が家の情報を取り、何らかの形で辞めるようなことがあれば、会社に絶対引っ張って来ると宣言もし決めていたらしい。
横浜と九州の果て地でそんな意図を持つ人がいるとは皆目思わなかった。昔は何でも手間暇かけた時代であった。
そして情報網よりの連絡で家業が潰れたようだとの情報で調査員が飛んで来たらしい。そう我が家の債権者会議の折にはそこに潜り込んでいたと言う。
当時の事は何せ一人で全てを対処する身だったから、債権者には漏れず参加してもらうが、うちの債権者会議はフリーパス状態で異常に外部の参加者が多かったのである。
その前にテレビや新聞沙汰にもなっていたので、今更どうでもいいと制限する事はなかった。
そこでの私の話しや態度の報告を持ち帰った調査員の感想なども聞いて、私の覚悟が尋常じゃないから、アイツの納得するまでやらしてやろうと決断したらしい。
つまりヘッドハンティングしたかったけど、出来なかったと言えば聞こえはいいけど、俺はお前を見捨てたんだと言う。
私からすれば何だよそれってこと。助けてもらう謂れもない事だから、何をそんなに責めてらっしゃるのかと問うと、何十年も会社やって来て個人的な財産もある、業界での信用もある。だが俺はお前みたいに自分が決めた事だから、会社をやめさせていただき帰ります。と言った時会社としても俺個人としても手放したくなかったんだ、でもお前の言葉は少ないが、俺が口を挟めない雰囲気がある、調査員も言ったが、作られたような、悪意のある債権者会議が普通であるのに、彼の一言一言だけの短い言葉に、誰もが異論反論出来ない凄みがあったと報告があった。たった25歳の若造がそんな啖呵を切ってまで自分を追い込むのかと思ったら泣けて仕方なかったけど、所詮あいつは我道のみを行くんだとつくづくわかった。
俺よりはるかに若いがはるかに敵わない男だとわかった。
それから俺も負けないよう馬車馬みたいに働いたと言う。
奥さんが言われるには2年前にガンが見つかり引退してもらいました。
大人しくなった主人の側に居て安心もし、やっと家族団欒もと思っていますが、この人の心残りは貴方に会って胸の内を晒したかったのです。
そこで息子とも語らい、その後の貴方様のご様子をお調べさせていただき、ご連絡を取らせていただいた次第ですと。
私の会を主催していた滋賀の者がお話しを聞いたのですねと伝えると、静かに頷かれる。
ふと部長の眼を見ると何とも言えない感情が湧いて来て、これが我らの最初で最後の時間なんだなと何となく思えた。
体調もあるだろうからと時間を急ごうとしたが、気分はいいのだから気遣いするなと言う。
色んな話しを息子さんが持ちかけてくれた、そこは現実の私には大いに助けになる事もあったが、そんな事はどうでもいい事だから全て丁重にお断りしながら、場所を変えてお昼の中華をホテル内で取ることにした。
私は普通に食べるが部長は熱い紹興酒を舐めるようにしながら全く食べない。
家庭裁判所に行っていただいた時の事を覚えてますかと聞くと、うんと微笑む。お前には言わなかったが、あれはお前が罰せられる内容ではないが本人が頑なに言い張るからと、係官も苦笑いして無茶させないようにと俺にそっと言ったんだ。
お前は誰にも気になる男なんだなとあん時思ったよ。そこから始まったのかなあ俺のお前に対する気苦労もと言う。
こっちが頼んだ訳でもない事を、都合よく解釈せんでくれと言うと、奥さんが笑いながらもピシャリと、とにかく貴方の事と息子の事は、この人の趣味を超えた所で思ってるんですよと。
結局示された色んな申し入れは全てお断りとし、気が済みましたかと聞くとあゝありがとうと何度も頷く。
最後にお前この先ずっと一人でどうするんだと聞かれる。
黙って首を捻って笑うと声を出して笑った。
これでお別れですね、以上何にも言わず最後に握手して別れた。
晴れの日と思ったのに外はシトシト雨になっている。駅に急ぐ。
それから3週間後奥様からの封書が届いた。あの後4日して静かに旅立って逝ったと知らせがきた。初めて見るいい表情でしたと添え書きがあった。ちょうど3年前の桜が満開の頃でした。
長い間お世話になりました、部長本当にありがとうございました。
私はもう少しがんばります。


















