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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[三十三]

「腕相撲」
「握手してください」。当時10歳位の少年がまっすぐ私の眼を見て右手を差し出す。私も椅子から立ち上がり頷いて握手する。細い体型に似ず大きめの手だが、その力は弱い。
「脇を締めてギュッと握れ」、言われたようにやろうとするが、思うほど力は入らないようだ。

私が愛知県に来てかれこれ37年。
来て2年目にこの少年のお祖父さんと知り合い、それから2、3年に一度この方の家を訪ねる。
どの様な事情かは知らないが、少年はこのお祖父さん夫婦と暮らしている。この家を訪ねる時は必ず少年も居る。
そして帰り際の握手が恒例となった。
「脇を締めろよ」
頷いて握ってくる手も少しずつ力強くなってきている。そういつの間にか握手を通して握り合いになり、一種の勝負を挑まれる雰囲気となる。
お祖父さん夫婦も黙って見守る。

私も肉体労働をしていたから当時は握力も70キロを超えていた。仕事を辞めてからもその筋力はそうそう落ちるものでもない。
初めの頃はすぐフニャッと潰されていた手も、年月をおく間に前回のイメージより数段も強くなって来るのがわかる。スタミナも付いて何回もチャレンジして来る、額に汗を浮かべながらも歯を食いしばって向かってくる。この後しばらくは手が痛いはずだ。
私は男の子のこういう挑戦は一種の神聖なるものと位置付けるから、基本手加減はしない。
初め負けて涙目になっても、負けて泣くなと変な励まししか出来なかったが、喰らいつく様な眼差しが好ましくて、つい次の機会を楽しみにするようにもなった。
2、3年に一度僅か1、2分のその時を心待ちにする。いつまでそれが続くやも知れぬ生き様の中でも、再会出来た喜びとともにいつしか、私の数少ない張り合いの一つともなっていった。
彼が中学に入り高校生になる頃は、結構頼もしい挑戦者となり、一浪した後大学の2年生になる頃は、ほぼ対等な成長ぶりでそこからは腕相撲にまで発展していった。

握り合いにひたすら集中していた彼は握力の強化を主として鍛えていたらしく、自信がついて来たと同時に、2人の間では馴染みのない腕相撲の世界に引き込まれて、またまた目の前の私には勝てない。その頃50歳くらいの私もまだまだ力はある、若者が握力をつけて来たら、よし腕相撲だとたちまち大人の狡さなのか、懐の深さに引き込まれてまたまた悔しい表情を隠さない。
「勝負事は勝たなきゃな、2回目はないんだぞ」
2回目の受験で通った彼には身に染みてわかるらしく、盛んに頷く。
またまた狡い大人は古傷に塩を塗り込む。

縁の薄い関係だからこそ、今やれる事を真面目に取り組んでやり、今言える事をハッキリと伝える。それらを検証していくのは彼の人生の内であり、私はそこに責任は感じない。
いつも彼から挑んで来る、そして応えてやる。
たった1、2分の時間の中身は私にも代え難い真剣な瞬間となっていた。
いつもギャラリーでいたお祖父さん夫婦。2人の闘いの場では一言も口を挟まず見守っていた。そのお祖母さんが彼の大学卒業の前年に亡くなられた。
知らせを受けて次の日に訪ねた。線香を上げて次の間に移った時、黙って彼が手を差し出して来た。今から勝負しようという合図だ。

そこにはお祖父さんも誰もギャラリーは居ない、静かにテーブルで手を組み合う、そうこれまでにない力強さで私は捩じ伏せられた。
納得がいかず、私からもう一丁と腕を構える。
次もやはり同じでかなわない。
参ったなぁと思っていると、彼は俯いてポタポタ涙を落とす。はてなと思っていると、婆ちゃんが婆ちゃんが勝たせてくれたんですと言う。
そうか、これまで負け続けて来たお前を見てるのも辛かっただろうな、でもこれでお前は俺より強いと証明した。
10歳の子が12年の間に見事に成長したんだな。
よく頑張った。
いつの間にか部屋の入口に立っていたお祖父さんが、そうだよくやった。
でも簡単に男は泣くなと、それを涙声の裏声で言う。
それが可笑しくて3人で小さく笑ってしまった。

もう一度お線香を上げてお暇した。

今から13年前お祖父さんの経営する会社の関係で一家はアメリカに居を移した。それから5年してお祖父さんもこの世を去った。
一人孫として育った彼も、今は嫁を貰い家族も5人に増えて平和に暮らしているという。
壁を乗り越えた男は、もう後ろは振り返らないものだ。
私はというとあの時最後の最後で負けた手と腕の痛みは今でも覚えている。
勝った方は忘れても、負けた方はいつまでも覚えていて引き摺るものだ。
だから負けちゃいかんと教えるが、負けて安心した事実もまた忘れないものだ。
そうあの日帰路にあって、負けて良かったと思ったんだったな。
まぁいい、そういう甘さが私にはまだまだある。
少し苛立ちを覚えるがまぁ良しとしよう。








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