「『初』その世界」
昔の男衆の語り合いの一面に、「選挙は小さいものほど難しい」というのがあった。子ども心になんでと疑問に思っても、それに対して素直に答えてくれる雰囲気など皆目なかった時代、下手すりゃ大人の会話に口を挟むなと雷を落とされる。
今考えれば、あの時代だからこそ何となく疑問とすることには、自分でその答えを探し見つけるべし、となったのだなと。
仮に学習でも技能的な事でも、教えを乞うには拳骨か罵倒は付きもの、と覚悟して聞いた気がする。
だから昔の人は考えることが得意なんですね、なんて単純さではなく、教えてくれないのだ。大人の会話にとまずは制約があるのだ、その前提で知りたければ覚悟して聞けという事。
まあ単に大人の全ての人にも答えられるほどの知識や情報が備わっていなかったのかもな、と近年になればよくわかる。
こっちだってそう大して理解してる訳でも、情報の有り余るほどの環境に生きてる訳でもないから、そこをガキらが単なる興味本位で尋ねてきても、こっちの無知ぶりに塩をすり込む行為だと映ったのかも知れません。
などあの頃の背景の一部が今となっては、とても懐かしく面白おかしく思い出されもするし合点もいく。
「小さな選挙ほど難しい」とは、国会議員や県会議員の選挙だと、国会議員選挙の場合、昔は区分けも大きく特に全国区などというと、まさに全国にその評価を委ねる訳だから、田舎の小市民が出馬することなどあり得無い。必然芸能やスポーツ、あるいは時代に持て囃される立場の人が、その知名度を頼りに出るものと相場は決まる。
それよりは小さい単位の県議会議員選挙でも、各市町村単位の推奨をいかに得るかで勝敗の思惑が固まる。
これが市町村議員選挙だと、まさに小さい単位で、あの地区の誰家と誰それの家は、こっち側だあっち側だと、票読みが細く精緻を求めていく。
ゆえに投票前日まで気を抜かず油断せず票を取れ守れとなるから、嘘みたいな話だがこっち陣営あっち陣営が、それぞれの地区に敵方を入り込ませないように、投票前夜は「張り番」を立てる。
数人単位で集落の出入り口を塞ぎ見張るのである。
結果何票の差で当落の悲哀を受けたりするから、当然陣営毎の怨みつらみも、シコリも生まれる。大体選挙は4年に1回あるから、終わって一、二年は集落中が妙にギクシャクするものだった。
私の父も16年市会議員をやったので、選挙の度に皆さんに大変なご苦労をかけたなと、いまだにあの頃の異様ぶりを思う事がある。
だからこそ「小さな選挙」は突き詰めれば突き詰めるほど、その全体の破壊につながるもので、選挙という勝ち負けの世界の当然さに身を置くと、勝つこと以上の慰めも価値も安堵もないのである。
それを小さな世界でやるのだから、市民の為皆の為と謳いながら、結果的に互いを傷つけ合いながら勝利を勝ち取るという「矛盾」の上に立つ制度でもある。
この度、高市早苗さんが総理大臣に選出された。
日本の憲政史上『初の女性総理大臣』となられた。
そこまでの自民党内のゴタゴタや醜悪さも、連立政権とならざるを得ない故の野党との連立劇のバタバタぶりも、このネット社会ではリアルに映し出され、呆れられたり愕然さを与えたりしながらも、ようこそ密室のガラス張り化が為されたのかなとも思えて、なるほどガラス張りも慣れれば案外いいものだと、感心もする。
そんな訳で行く先々で『高市早苗』世界を聞かれます。勿論一国の新しい総理大臣への期待感の現れでもあるでしょうが、『初の女性総理大臣」としての彼女の思考に大きく興味の湧くところでしょう。
高市早苗、奈良県出身、若くして国政に在り、自民党の流浪の時代にもまれながら鍛えられ、大臣の要職も党の幹部職も無難にこなし、その舌鋒は鋭く世に刺激とも期待とも拡散させその個性を定着させ、党の総裁選を越え連立劇を組み上げ国会の決議により内閣総理大臣に就いた。
早苗〜自らの立ち位置にあり、その係る全ての圧力や情報より逃げず、検証し判断して取り組むべき範囲を定め深め、その具体性、現実性までを思考として持ち、いざ行動の段にあってその思考を元に再び異なる視点、立ち位置より判断し、自らの思考や目的に対して漏れなく理解し納得して、その事を左右上下の現実的思考として備え臨む、とまとめられる。
言わんとする事を理路整然と持ち、やらんとする事に対する圧力や疑問に漏れなく敢然と受け応える力がある分、その実行は丁寧さを要すると考える。
つまりは想像するに、総理大臣という重積にあり、言わんとする方針をきちんと持ち、実行に当たってはどんな現実かによりながらも、四分割の特性を活かして圧力には漏れなくバランスよく対処し、施政は丁寧にを意図しながら適宜に行うと説明がつく。
ここまでの長い議員としての経験から、外交内政に対する一議員としての、意志や理想はあるにしても、総理大臣という国家の要として立つ場合は、理想は持ちながらも現実としての優先度を内外に知らしめ、その融和外交を全面に出しながら、一つ一つの内政問題に、スピード感を見せながらも丁寧に仕上げ示していく、とまとめられますね。
つまり一議員として与えていたイメージとは異なり、慎重かつ丁寧な姿勢を持って出来るだけ速やかに取り組む印象が強いと映るのでしょう。
その結果、自らの意志を反映する各大臣の動きも、個人プレイに走るのを嫌い、あくまで早苗納得の範疇を越えない事を求めるはずですね。
ここまでおそらくどの議員さんよりも勉強熱心ですから、その印象は間違ってもいませんが、理想的社会に対する国民の期待値はとても高くなるはずですから、少々慎重に過ぎる印象を与えたとしても、その理由や背景に対してきちんと説明がつきさえすれば、忍耐強い日本の国民性は、納得して待つでしょう。
だからこそ確実にまずの一つを示していけば、それは納得と安心を与えますから、ここまでの誰もが成し得なかった、言える範囲の正しい情報と進行状態を示しながら、さあ皆さまと共にと広く国民に訴えていただければ、今の時代に合った素晴らしい総理大臣となられると思います。
こうして『初』という字は、あらゆる検証想定を尽くして、そのタイミングに合う自らの発出となります。つまりはここを起点としての、まずの始まりや続く展開を示し表す字ですから、今より未来に託す思いを抱きながら、続く若者達への道標となるべき存在として取り組んでいただきたいと思います。
選挙や政争は当事者だけではなく、その周りをも大いに傷つけるものです。
政治を志す人は、その事を大いに頭に入れて、未来に無駄な傷を作る事なく、美辞麗句で繕う事なく、常に新しき政治のあり方を若者や子ども達に考え示せる覚悟を持って、取り組んでいただきたいと思います。
人は歴史や過去に学び、活かし進むと信じ思っていましたが、現代の纏うものさえ吹き飛ばすスピード感は変わるべき変えるべき勇気を持つというよりも、もう昔の価値観は通用しない、位の視点より始める幅を広げて想定していかないと、今感じる社会のズレはいずれ修復出来なくなる気もします。
過去を学び考えながらも、一人一人の個性より知り始める人間学という、国家観をも超えた幅広い学びより始め、現代に山積する問題も国の国民の課題として表に出して、様々な意見をまずは各家庭で持ち、個人の意思の確認としながら、そこに変節のある事も当然と出来る、民主的な思考の醸成を重要とし、現場ではこうした手間暇係るからこそのやがての納得が実は変化とするには一番早いのだと信じています。
一つの決まりを作るとそれに付随して十の二十の規則が必要となります。
これが大きな苦痛や短絡的な思考へと向く気がしてなりません。
過去の教えをも重用する故の、新しき気づき。
そこには必ず納得して一歩を進むという意思があるはずです。
『初』ある故の、次から次と続く道のりです。
そんな意味で『高市早苗総理大臣』の誕生は、日本の国の新しき大いなる踏み出しと言えるのでしょう。これが国の内外に平和や安全の刺激として影響を与えるものと信じてやみません。
くれぐれも健康にご留意いただき、その重積を堂々と全うしていただきますよう、お願いいたします。
ありがとうございました。
(令和7年10月19日講義内容)















