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のぼりです



【『個』の見つめ方】

先日孫が通う保育園の運動会に行きました。

普段あまり相手出来ない孫の早々の連絡に了解の旨応えていた分、張り切って出か

けて行きましたが、よくよく考えると二人の子ども達の運動会も一度として見に行

った事もなく、その応援席に陣取った風景はとても新鮮で、少しの気恥ずかしさも

混じりながらも二時間で終わる運動会を楽しみました。

春に開園したての小さな園の運動会も、園児の普段の練習の成果をしっかり発揮さ

れたか、どの子も一生懸命な頑張りにとても嬉しさがこみあげます。

いつもは無口で大人しい娘も、見たことないような笑顔で夫婦で話しているのを横

目に、この子は確かお祭り好きとか言ってたなぁと思い出しては、それでもまた楽

しさが湧いてきます。


親らしく傍にいてやることも出来なかった事を責められた事もなかったけれど、そ

うとしか生きられなかった親を持つと、子は子でさまざまな思いを味わいながら生

きてきたのだろうと思い、沢山の事を考えて来たんだなと、褒めてやりたいとも良

かったなとも素直に思います。

私自身が親として反省する事、申し訳なく思うことはそれこそ限りなくありますが

それは私自身の事であり問題であり、子はその現実より立たざるを得ない覚悟をど

こかの段階で持たないと、それこそ親や人のせいにしたり、弁解であったりの本人

的な悩みを得てもそこには堂々巡りの思考しか育ちません。

大人になってもそれは変わらぬ人も多くいます。


つまりどんな環境でも条件でも、そこに不安や怖さや不満は渦巻き存在し続けると

しても、その事が自分の主張として意思として世間に出さなきゃならない時に、何

の説得にも理解を得る材料にもなりません。

それは全ての誰もが何らかの事情を抱えて生きて来ているからで、自分自身の特別

感は誰もが持つものだと言うことです。

だから同情や弁解をし合う場ならそれでいいかも知れませんが、そんなものは人が

真剣に生き主張する場面において、何の意味も為さないと言うことです。


社会や組織や地域にあって、その人の信頼度と称してその成長の過程や親の職業、

収入の程等を参考とする事実は間違いなく存在しますが、いざその現場に立てばそ

の人となり、その実力より何かを計るものはありません。

その人が今この場でいかに主張し行動するかで、その現場は環境は受容しては一員

とみなしていきます。そこにその人の持つ背景とかの影響は全く存在しません。

だから人は努力し悩み試行錯誤して、その意図し望む世界に近づこうとします。

これが現実社会です。



個々の生い立ちやその環境の情報は、その人の個性の情報として採用しては、名前

の文字の世界に取り入れ考慮していきます。

例えば片親で育ったとすれば、二親で育つ状況より、得る情報は少なかったかも知

れないが、その分足りぬと思う事は、いずれ自力で見い出したり、得る努力をする

決断以降に迷いが生じるゆとりはないはずだと考えられます。

つまりは意思決定やその行動には、親や誰かに見守ってもらえぬ分、我が意思、我

が決断として早くより備わるとも解釈出来ます。

ですから二親なら二親いるという情報に生き育ち、片親だけならその情報で己の意

思決定や行動をとると言うことを理解して臨みます。


やがて本人認識レベルの家庭環境調査の次元はとっくに越えて、その人自身の世界

はいかに、となるのがこの現実社会だと言うことです。これが実力世界の基本とな

ります。

このような現実を大きくカバーするのが学校教育制度ですから、ここは多少なりの

制約はあるにしても大きく広くその門戸はありますから、人が生きる上での沢山の

選択肢を得る為にも、出来る限りの教育を受ける、あるいは生涯において学問に向

き合うという事は、先に述べた様々な生い立ちや環境の差はあっても、個人として

の課題やその希望に添えるものとして存在しています。

例えば二親から得た情報ならそれをうのみするかどうかを勉強を通して検証するし

片親から得た情報以外は、勉強の世界より取り組んでは足してゆくとなります。

そこ迄生きた人生の疑問もまた勉学の世界より見つめ直してみるとします。


十人いれば十の物語があり、百人いれば百の千人いれば千の物語があります。

つまり一億二千万人いればその数の物語があり、それぞれが異なる個性を有する、

という視点に立ってその説明をしていき、それぞれが自身をしっかりと理解して、

あるいは再確認してそれぞれの道を歩いていただく、それが『のぼかん』の意義で

あり仕事としての立ち位置です。

その道はその人が歩み行くものとして、誰もが尊重しては認め、そしてお互い様で

すと励まし合うものと考えます。

これより発する規則やルールや規制に、大きく善し悪しの価値は存在せず、全てが

個の存在その個性の尊重や理解にこそ、努力すべき基本があり、それを経ての社会

は誰のせいでも誰かの独占でもない、広く真摯に生き歩む世界であると信じます。


それでも日々に歩む道は辛く険しくても、誰もが等しくあるのだと確信しては、少

なくとも我が意思で歩く誇りと納得は当然とあると考えられます。

ここからの時代、説教や親の奢りや、社会においての独善的支配は、結果として意

味を為さず、むしろその遠回りには虚無感と殺伐感のみを残す事となる可能性が高

くなると思います。

これからの子ども達には、更に広く学問に触れる喜び大事さを丁寧に説き、伝えて

大人がそれを実践してみせる事より、大人も子もこの今より義務感や責任に感じる

ような学びの世界より脱して、本来の素直な人となりを楽しむ事だと思います。


孫の頑張る姿を通して、娘や息子との幼い日々を思います。

娘が二歳の時にはもう別れて暮らした訳ですが、出来る限りの会話の努力はし理解

にも努めようと覚悟して来ましたが、一緒に居てやれぬ申し訳なさの重みには、自

分の努力などは何の足しにもなりません。

あまり勉強の好きでなかった娘が今親になり、我が子と一緒に勉強の大事さを確か

め合う姿を見ると、素直にウンウンと頷けます。

いずれ娘も孫も、人生の覚悟は家族であっても個々で有しては、その事をお互いで

尊重し合うものなんだと知ると思います。


誰かが誰かに教え伝えては、またそれが脈々と繋がって行く当然さにこそ、人の人

類の未来を等しく考え合う世界であると信じます。

急速な環境や社会の変化の兆しは、同時に人としてその立ち位置として、共有する

地球人として、やる気と気力と明るさを持って日々に考え尽くしてみようと言うメ

ッセージだと思います。

まずは学びを常に右に置き、我が立ち位置を見回しては考えを尽くして参りましょ

う。



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