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のぼりです


【ジュリー

「時の過ぎゆくままに」というジュリーこと沢田研二の歌が流行った時代があった。

元々ジュリーはグループサウンズのボーカルとして、そのデビュー以来多くのヒッ

ト曲を世に出しては、人気歌手の代表の位置にもいた。

「時の過ぎゆくままに」も、男と女の物語の光と影を、独特のメロディーとその歌

唱力でステキでカッコよく大都会の一コマを彩る曲として、多くの人に好まれヒッ

トした。

もちろん当時の自分には、そんな背景も設定のかけらもなかったから、都会的な遠

い遠い世界のお話しと映った。

若さを持て余しどう自分の気持ちを理解すればいいのかさえわからぬ身には、どこ

までいっても交わることの無い世界の誰かさん達の生き方だろうとも思った。


話しは少し逸れるが、私の歌の好みは詩よりもメロディーにあった。無論歌のサビ

は間違いなく印象に刻まれるが、一曲通して歌詞を覚えることができた試しがない。

歌詞がいいよね、とかあの言葉が心に響いたとか、あの歌で人生に勇気が持てたと

か、周りの反応を耳にする事はあるのだが、あまり他人が書いた詩に心ときめく事

もなく、きっと作者はそうなんだね位の感想しか持てない。

自分が素直にそれを理解しない分、周りにはなんて心優しき人達が多いのだろう、

その感性はどこで身につけられるのだろうと、思う事はしばしばあった。


今ほどクラシックを聴かないころだったから、その当時は歌詞のない映画音楽の世

界が無理なく性に合うと思えた。

だからカーステレオが流行りだしても、歌謡曲はどんな好きな曲でも一回聞けば飽

きてイライラするので、映画音楽やジャズやロックの外国の曲を好んだ。

外国語は大まかな雰囲気はわかるのだが、それ以上は意味がわからないし、わかろ

うとも思わないので、それほど自分の心に入り込まないのだ。


そんな自分が今このように思うことを書いたり、本音を書いたり、時に寄稿を求め

られたりもする歳になった。

すると文章という視点からすると、ある程度の技法が必要ともわかってくる。

適度な引用も効を深めるとも思う。だけどわかってはいるがやはり嘘も脚色もした

くないから、技巧に頼らず自分のありのままを表そうとする。

世には受けたいが為、よく見せたいが為、本や他人の言葉をパクっては文言を少し

変えては自分の言葉として、強く押しつける輩もいる。コピペなんかもその延長と

して普通にやる。

学校や会社のレポートにも同じ傾向があるともいう。

恥ずかしくないのかねとは思うが、目的の為には恥ずかしくないのだろう。

そういう人は結果が全てという世の中の正論たる一部を拠り所にしているのだろう

が、元来が人間不信で自信も責任感もなく、ただただ自分の注目の浴び方が根底に

あり大前提だから、長い目で見るとますます孤立していくことになる。

そこまで作らなくてもと思っても、一度つけたキャラはなかなか外せないから、い

い加減その事が露見してしまうと、周りも呆れては放って置くしかない。


美辞麗句や外見の派手さや涙や快活さのオーバーアクションには気をつけろという

先人の教えも、時間が経てばわかるものはわかる、という現実的な処し方理解の仕

方があるということだろう。

無論立場や責任のあり方から、わかりやすく伝わりやすくする為に、ある程度の比

喩や度合いの大袈裟な表現は必要だが、所詮は芸人でも芸能人でもない者が、まし

てや人の生き方や苦悩に接する者の覚悟として、そんな無茶や無理をしなさんなと

いうことになる。

やりたければ向こうの世界で堂々と振る舞えばいいのであり、市井にあっての学び

に属するレベルは真っ向勝負の、その中味次第が価値と問われてゆくということを

肝に銘じるべきである。



この号でもいつも述べるが「講師としての自分に、客である自分は託せるか」だ。


私も「のぼかん」を編み出し立ち上げる前から「自分が客として、一個人として真

摯に向き合える学び」であるかを日々に問い試した。

私は結構自分に向き合う事は慣れているから、受け狙いなんてのはアホらしくて、

そんな事を考える位なら、まだまだ文字に向き合えば掘り進めていける所にやる気

が向く。

その結果として、偏屈ではないが、笑いや遊びより本番の真剣さを常に求めるから

私が前に立つとたまに酸欠状態になるのか居眠りに陥る人もいる。

あれまあもっと座持ちも必要かと感じても、その当人は案外次の回もその次もと参

加するから、私の気にし過ぎだなと合点もする。


だから私の講座は挨拶もそこそこ、では始めましょうかとスタートする。

ある時セミナーのコーディネートをする人が参加したが、明らかな前半の不満顔が

後半からは、自分が一番質問に積極的で、結果これでいいこれでいいと帰って行っ

た。


私は「のぼかん」を伝えたいのだ、それは貴方にとってのこういう事に当てはまる

のだよと、その視点は外さない。

今伝えておきたい事、こんな解釈やこんな表現やこんな考え方にも通ずる事を、一

人一人の名前の文字の「理論」を通して理解してもらいたい。

私はその事に全力を傾注する。

何故かわからないのだが、とみに近頃この事をよく思い口にもする。

「私が今居るうちに聞いておきなさいよ」と。


華やかな世界をテレビの向こうに初めて見た頃。

ジュリーは大スターだった。

年齢も大して変わらないのに、遥かに華麗な世界に生きる大スターだった。

昨年ジュリーのコンサートのお客の入りのゴタゴタで、街灯テレビの画面で久しぶ

りにジュリーを見た。

相変わらずその言動が話題になるなんて、さすがはその道一筋ゆえの大スターだが

あれから半世紀経ったジュリーの容姿は、なんとなく我々の年代にそれなりに近く

あり、その距離感はグッと近くなった気がした。

時の過ぎゆくままに今がありとて、誰もが平穏に無事に暮らし来れた筈もなく、そ

れなりに個々なりにその時を生きては、またこれよりを生きる。



『のぼかん』では、誰もが初めから悪いはずはなく、困惑もあるはずはないという

観点に立ち、さりとて今の対人関係や、仕事の混乱にその判断を迷うと、取り返し

に時間がかかることが多いという現実に生きている。だから人は日々に考えては苦

悩するが、判断を正邪で考えようとするから、その堂々巡りの深みにはまってしま

う。

私達はお客様のそこの立ち位置に添い、まずは個性としての個々の違いの理解を得

て、納得しては生きる覚悟を励ます学びであり、仕事としています。


私自身、『我が事において、知ること理解すること』を常の右に置いて、これまで

通りしっかりと歩いていきたいと思っています。




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