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のぼりです


【明日へ

2000年の年明けを機に、ある程度完成を果たした『のぼかん』を世で試してみたく

なり、というか過去に引きずられてウジウジ生きてる男性を、「理論」を通して理

解させ励まし、さらに太い心で人生を歩いてもらいたいと思い、『のぼかん』の看

板を掲げた。

その時、私の源点たる父母の誕生日が同じ日でもあったし、その2000318日を

設立日としようと思った。

看板を掲げた瞬間より、まさに想定外の出来事ばかりあり、何とか以前の杵柄を頼

りに捌いていたが来るお客さんは女性ばかり、なかなか男性諸氏が顔を出さない。


以前の家業も女性を大勢使う雇う仕事であったから、いつかの機会には男性諸氏と

仕事をしてみようと思っていたが、蓋を開けてみるとなかなか新規のものに対して

も度胸よく向き合ってくるし、理解力も柔軟性があり何より『のぼかん』の前にあ

って、皆が皆とても素直であるというのに驚かされた。

対して男衆の方が、その出典や背景を疑ったり胸中をさらすのを躊躇したり、効果

の保障を求めるかのような印象が強く、案外メジャーなものやブランドや『寄らば

大樹』に拠り所を得ているものだなとも勉強させられた。


それでも男女問わずして、ここまでの文化の影が強く染み入っては、常識や道徳や

世論という、目に見えぬものに怯えたり意識過多として過ごしている人が大半で、

自分らしく生きたいと叫ぶ側から世間に受け入れられること、という安心の条件は

満たしたいと言う。

確かに個性の主張は大人でも子どもでも各々に持っているのだが、それでも家族や

学校や職場や地域においては序列を持って成立している訳だから、その主張を堂々

と許される立ち位置にある者、あるいは自分の周りに個の主張に対しての理解のあ

る環境のある者は、当然として臆する事なくそれを発する事も出来るが、そうでな

い者は上意下達の流れに粛々と従う文化も、またその我慢や忍耐が強く大きくなる

試練として、逆らわずして受け入れることを強いられる。


2000
年当時の世は徐々に徐々に携帯電話が普及し出し、パソコンが会社や役所で主

力となっていく頃で、やがて個人や家庭への普及が始まると、まさに怒涛の勢いで

世界中を網羅する事となっていくのだが、「人々の心」だけはそんな速さについて

いくはずもなく、それこそ何十年間を経ての常識となる中で、受け入れ可能な順番

にその変化もゆっくりと且つ当然の事実として受け入れていけるものだ。


私たちは自身に内向しての問答より何かを得るなどは甚だ難しく、まずは自分の実

情より学べるものに手を掛け、そこより続く世界に安心しては、その先の情報を取

ったり試したり学びにのめり込んでみたりして、ある程度の手応えや心の蓄積を果

たしてはそれを拠り所としてまた学ぼうとする。

しかし生活の他面では、テレビやパソコンや携帯電話より、居ながらにしての膨大

な情報に晒されている事実があり、常にその手応えや心の蓄積を試され揺さぶられ

たりもする。意欲をもって手間暇かけて調べあげ得心してきた作業の実態も、はる

かその先を駆け進んでる記事を読んだりすると、そこまでの努力の姿勢さえも急に

萎んでしまいそうな気もする。だからそのうわべの調べ事だけならチョィチョィと

キーボードを押せば画面に示される事になり、なんだか物知りの格好だけの構成に

はなんの不自由もない時代ともなった。



確かに生活の繰り返しの中にある、調べ事の作業の煩わしさは見事に解消されてし

まうし、我々のようにあの枠この制約を知っている年代にはパソコンはまさに夢の

オモチャであり、片時も離せぬ相棒ともなる。

対して若者には既に日常の事実として位置付けられており、見事に自分の心と現実

のツールとしての使い分けは心得ており、そこには社会の事実に対して自分の人生

をきちんと歩む意欲が確かにある。

無論何でもいつでも依存症的な傾向はあるものだが、同時にただ目の前の情報だけ

が正義で正常でと思い込む短絡さも老若男女誰にでもある。

それを前提にした商売も大いに成り立っている訳で、新聞社や放送局なども然りで

我々の主張こそはその正義と公正の最たるもの、の気概を盾に存分に発信している。


その情報過多の現実にあっての見極めや判断の境は、自分に没頭すべき何かを有し

ているか否かにあり、それが中途半端であると常に戸惑い揺さぶられる事となる。

例えば学生でも学業の向上には弛まぬ勉強しかないというのはいつの世でも当然と

してあり、そのひたむきな日々の精進にしか前進や到達はないことを知っている。

単なる点取りレベルでは情報の多さを助けとしてはコピペしたりパクリをしたりす

る。そんな小器用さにあくせくする者は昔からいる。

スポーツや音楽や文化的分野でも、その向上や納得にはひたすらの日々の繰り返し

の中の鍛錬や経験の積み重ねからでしかないのは誰でもわかる。

その中で理論や理屈を知るという事は、自分の立ち位置の実態や、その状況の意味

を知るということであり、それがわかれば自ずと自身の願望や当面の目標はどこに

あるのかもわかる。すると現実との差異も温度差もほぼ狂いなくわかる。

そこにくっついては離れる「感情」とは全く別物であるのだ。

「人の苦悩は目的は、究極その事実を理解し得ることと表される。」

これはそこに近づきたくば、「その実態、その理を知ること」とも言える。

つまり「理とは事実そのものであり、それを構成する有りようを言う。」


そこに取り巻く「感情」の層に、人は驚き悲しみ迷いしている訳で、これは時間を

経ればまた大いに変化するものだし、だんだんそんな感情にこだわっていても、自

分の現実の必死さを前にしたら、放り出したり埋没させたりしながら、日々の事実

に向き合っていくようにもなる。

いっときの快楽や高揚感も求めすぎると、やがての遠回りや悔いや無駄となる。

元来の人たるものの生真面目さや真剣さとはかけ離れた世界だからこそ魅力にも映

るが、それだけを追究してもますます飢餓感を増すのみで、本来の立ち位置さえ見

失う事となる。


人は一人で立ち、その意思に意識に立ち向かうもの。

側に弱きものがあれば、その身を支え続けながらも我が意には決然と向きあってい

くもの。

そこには誰も介在せず、常に自分の意思や意識のみがあり、そこまでの「理論」を

根拠にまたそれを繋げていく。

だからこそ他にも周りにも優しくもなれるし、他や周りを認める事も当然となる。

我が意に向き合う事の足りなさが、押し付けたり押しつけられたり、無視したりさ

れたり、他人の世界に踏み込んでは掻き乱そうとしたりされたりする。

長じてこんな厄介に生きるつもりではなかったのに、と思うそばからそれまでの力

みから解放され人らしくなっていくと言えるし、それを動機としてまた何か我が意

に沿うように生きてみようと素直にもなれるし、今のどんな状況からも始める事は

大いに可能だということも腹に落ちていく。


学生達の勉強はやろうと思うからやれる訳で大人の勉強もそこまでの「我が理論」

をもって重ねてより繋げていけるもので、決して他が周りがその心の深さに迫れる

ものでもなく、無論迫っていいものでもない。

例えば今の社会にはこの国には問題が山積しているといえば、「未来の大変さ」と

して脅しではないだろうが不安を煽ってはいる。根拠を丁寧に示さずして煽ればこ

れが感情として育つ。

未来や将来はまだ見えぬ世界としてあり、何があるのかどうあるのかはわからない

が、少なくともこの国の今日ここまでの事実に即して想定し、その「理」を準備し

て臨むとすれば、その事実や理に対する捉え方は皆が概ね一様であり、その判断性

に大きな差異はない。


ならば何故それを国として持ち得なかったのかと言えば、それは国は政治であり権

力を配置し、それを発するのも全て「人」であるからで、その地位に駆け上がった

者が持つ「力」で支配し支配されるという現実があるわけで、考える前にその事を

深める前にその「力」の決定につき従わねばならぬという仕組みであるという事。

戦争や権力闘争や暴力を勝ち負けの手段や頼りとしているうちは、「所詮秘めた人

間の欲次第」とも言えた。


しかし、これからの世は違う。

善人がたちまちに悪人となるかのような、秘密や情報の暴露が盛んだが、その根底

には権力や欲望の及ばぬ「理論の世界」が既に社会に根付いていると言う現実が

ある。

パソコンに載っている情報が主観で感情的であっても、それを載せているのはパソ

コンという機械つまり理論で動きその機能を発揮するものである。これは使う側の

意図により助けとも害ともなるが、明らかに害とわかれば必ず排除されていく。

それでも害たるものの「理」を抽出しては研究を重ねねばならないわけで、事実の

中に正義も奇麗ごともあるんだという「理」より人は学び進んでいく。


これからの若者は人としての普遍の努力の世界や勤勉さを忘れることなく、他方で

「理論の世界」をも等しく活用しながら、国単位の世界単位の問題にも、冷静に立

ち向かう強さを有していると思う。

我々おじさんやおばさんは、これまでの社会環境の変化に頬っぺたをなぶられなが

ら、何とか生きて来たが、これからの若者には「理」を常に右に置き生きる、そん

なすごい能力と可能性が備わっており、それは徐々に自分の動きを確かめながらの

状態より、いつかはきちんと第一線に飛び出していくというスタイルであると思う。

我々大人はここまでの事実の整理と理論化をきちんと果たし伝える事が重要で、若

者が出来るだけその継ぐ選択に戸惑う事のないような、より正確なものとして仕上

げる責任があると考えます。


この国の僅か数百年前からの変貌ぶりも皆さんご承知のように、後に託し伝える事

の正確さにこそ、我々大人としての責任も価値もあると信じています。

2018年も終わりにあたり、未来の青年、若者たちにそのエールを送るとともに、私

どもも少し緊張し直して明日を迎え過ごしたいと思います。


今年も大いにご苦労様でした。

ありがとうございました。




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