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のぼりです


選択肢】

いつのまにか、おじさん、おじいちゃんと言われるようになり、それを自分の事と

受け止める事にすんなりとはいかなかったが、孫も出来、その孫がおじいちゃんと

言うようになると、当たり前の事だが、お前だけのおじいちゃんなら大歓迎だ、な

んてつい気持ちも口元も緩んでしまう。



道行く学生さんやまだ初々しさの残る若者達を見ては、我が歳の多さを思う事はも

ちろんあるが、彼らの会話や言葉使いを何気なく耳にしたりすると、何というか自

分のその頃と重ねては、そのあまりの知識の多さや主張の明確さに、つい嬉しくな

ったりもする。

これが日本の何十年間を経た教育の成果や、文化の結集の表れと決めつけるには大

げさで単純すぎるかも知れないが、素直に喜ばしい事だと思う。

無論アホな短縮語や、意味不明のある年代のみ通じる言語なるものは一顧だにしな

いが、いずれ彼らも社会の基本路線に組み入れられては、見事にその枠にとどまる

事で世暮らしを送るようになる。


教育的効果とは、その「個人個人の生きる選択肢を有する事」と理解する。

つまりこの世は、ある程度においてあらゆる学問としてあるいは主義主張として整

備されており、それに接し納得する程努力しては理解しながら、学問上この世の中

とはまずはそんなものなんだなと、自然に身につく事で、それと向き合い努力した

時間の意味とするのだ。

無論その事自体が即何かに反映されることはないのだが、それの一枚一枚の積み重

ねの実態に、少なからずの納得の多さとしてわかり、そうして自信として我が身に

染み付いていく事を知る事となる。


と同時に常々に触れて来た、親の意見や先生や友人の話、垣間見る社会の動きや、

そのリアルな実感に、ただの自身の頭の中を幾億通りに駆け抜けては問答して来た

今ある事の意味やその前途や、未来たるものへの人の生きる意義などの全てに対し

て、いつしかその中の幾つかは私ならこうする、私はこうしたいと、自身の内より

素直にその事への意志が芽生えていたり、そこへ向かいつつある事を確実に知ると

いう事等、これが「教育により自身の人生の選択肢を持てる」という事となるのだ

ろう。



無論学習に対する勤勉さを、ある職業を目指す条件の必須としたり、まずはそこの

大学への挑戦が避け得ぬ努力の全てとするのも間違いではないが、今のその姿がこ

れからを目指す彼らの人生の、どの位置を指すものと解釈できている「大人」から

すれば、目先の数年の絶対的目標に打ち込む姿は、実は楽しくも有意義とも全く思

えないのである。

少なくとも、まずは学問と向き合う事が、大きい尺度での自身の方向性を知ること

とすれば、そこに向かうプロセスの一つとして学問を無視する事はしないし、自身

の貴重なる時間、期間と理解できるはずである。無論その事が果たして自身の求め

る方向性であるか否かは行ってみなければ、どこのどんな達人にもそれはわからな

い事であり、また今そんな目標が持てぬ、わからぬという事もそう大事な事でもな

い。

とりあえずを定めながらも、そこに向かいながらやがて変節するかも知れない事も

含めて、自身の決めた事として貴重なるものとする事が、自分にとって大事なんだ

と「大人」はわかります。


親や学校は、子どもや生徒に対するある「期待感」「責任」の表れより、その事に

正直に振る舞う訳ですが、親の期待に応える事の子どもなりの責任や必死さはあっ

て当然とも言えるが、何より親子でもその「個性は異なる」という現実に立てば、

自分がまだ満足に立てもしないのに、親の願望を背負って親のその位置に立つ事す

らあり得ない事なのである。

もちろん親子の願いや方向性が合致するほどの擦り合わせがそこまでの時間で出来

ている家庭の場合は、「目指すは自分の納得の為」とある訳だからなんら問題はあ

りません。


だからこの文章も、子どもさんにも親御さんにも知っていただきたいのは、人が一

人生きる生き抜く事の大変さや難しさを知る、あるいは想像できるならば、またそ

この充実感も本人ならばこそわかるものとして、どうぞ子どもの未来はその進み方

は、親子でしっかり話し合い、大人の知識も子どもの選択肢の一つとして提供する

くらいの意義にあった方が、いずれは子どもの身にその親の思いとして十二分に伝

わるものと思います。


頭では子どもの未来は子どもが決めるとはわかっていても、幼少期よりそうではな

い、そうじゃないと言い慣れ、聞き慣れていれば、どうするの、どれが正しいの、

とそんなやり取りが当たり前となるのはわかる。

しかし、親自身に当てはめ振り返えれば、実はその通りで決してよくはなかった。

むしろヨチヨチでもいいから少しずつ自分の意見の持てる子になってもらいたい、

という現実的な思いを持っているのが、親であり大人であるはずです。

我が子を飼い慣らそうとは思わぬが、人生を生きた者としてこの道を行かせるのが

「正しい」と信じて、我が子に接している。という親がいるが、だからそれは親た

る貴方のご意見でしょう、貴方の価値観でしょう、とその矛先を向けてみる。



親との問答、これをたいがい30分やると、やはり子ども本来の一助として寄り添い

たいのに、大きく言葉が足りなかった、使う言葉があまりにもその枠からその線か

ら外れてもらいたくない為に、綺麗な言葉を使っての恫喝や強引な誘導をしていた

事に気づいていただける。

そして、やはり教育が学問が人が生き始める時の、生き疲れた時の大きな支えであ

り、人の大いなる標ともなるものであれば、こんな窮屈な価値観の世界での学問の

点取りの押し付けをしていたのを自ら恥ては合点もされる。


人の生きたる人生観より、子に強要はせずとも出来るだけ傷を負わずに苦労も短絡

で終わり、そこから解放された幸福をと願っても、それは人本来の価値観とは大い

に異なる事だという事。

つまりは人の生きたる意味とは、生きているという実感にある緊張や怖れや、喜び

や誇りとともに、自身の時間を味わい尽くす事にあり、自分の弱さが特別だと思う

そばから、子どもに大いなる期待を抱き、自分に果たせぬ自分の代わりを願うとこ

ろに、窮屈な面白くもない時間を費やしてしまう。


個人はその国の風土、住む環境、その時の時代の事実などにより、それをまずの情

報として受けそこより歩き出すわけだから、一足跳びに何かしらの達観や完成を得

るものでもない。

様々な時代にありながらも、生きては考え苦悩しては喜び頷く人ならばこそ、何か

を学びながら考えながら、刻々の時間を経て行かねばその務めは終わらないものな

んだろうと考えます。


好きとか嫌いとかではなく、まずは学問に接してはそれ離さず進み行く事の大切さ

を教え問えば、今以上に自由な中に真剣な生き様を、自分自身の為として早いうち

から身につける事が可能だと信じます。

この歳になりわかることは、自身が問い悶える事は、やはり自身のこの先です。

過去よりもこの先の事に心が騒ぎます。伴侶がいようが、子が孫がいようが、我が

道の終わりは我がこの心で知り感じたいはずです。

その時の事を早や考えているのもこの歳ならばこそです。

その時の為に、今尚一段と我が意に正直に強く激しく、きちんとありたいとも願っ

ています。


おじさん、おじいちゃん、も黙って受け入れるしかありません。

彼らから見たらその通りなのですから。

だがおじいちゃんの胸中は、まだまだ繁雑で満ち足りてはおりませんぞ。




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