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のぼりです


誰もが哲学者

「いかなる学識も、その検証や実行や、自らの経験により裏打ちされる」

「歳を重ねるとはそれぞれの人生において、経験を積むことでもある。そこは間違

いなく時をかけ、悩み苦しみ血汗を流しては通り抜け、また繰り返し向かう世界で

もある」

などなど、『のぼかん』を経て語れる言葉も多くなった。


五十歳前の創設初期の頃は、まだ若輩として律し、説教や教訓じみた事へのアレル

ギーから、その相談の主旨の解き明かしの伝達や説得に、際立てて知る意味に潜む

『字の理論』をその骨頂として戴いて来たが、六十歳半ばを過ぎてみると、一つ

ひとつ検証しては増えてきた『のぼかん語録』に、よりスムーズな伝達の効果も観

るようになった。

無論他の世界や、他人の言葉などからの引用は昔から一切ないが、だからこそ毎日

まいにち年々「草の根的活動」で積み上げてきた「理解」という薄紙の重さの蓄積

も、今は当の自分ですら素直に認め頷き納得する存在として成立している。



世に子が生まれ喜び祝い、肉親が、知り合いが旅立ち悲しむ人の常にあって尚、我

が身は日々に新たな経験を積みながら、その途中にありとあらゆる思いや感情を交

えながらも、時に決断し時に迷いながらもヨチヨチと一歩先に進み、果たしてこの

先のどこに辿り着くかも怪しいままに、顔に不安の出ぬように周りに気取られぬよ

うにとその背を伸ばし微笑む。

子が親を頼りと不安をぶつけて来ても、知らぬよその子なら、こんなもんだよと、

優しく諭す術を駆使しては接しも出来るが、どうにも我が子となれば、軽く簡単に

とはいかない。

何がそんなに緊張し躊躇させるのかと自問すれば、我が子への責任の程度や覚悟の

程を遥か以前から背負い試されていることに気づく。


例えば教育者という立場での多くの子ども達への向き合いは、自分の熱意や愛情は

疑わぬものとして前提にあっても、それは法律や行政の範囲、学校の方針の枠内に

おいてであり、それは足りぬ事よりはみ出す事、飛び出す事への制約の上に成り立

ち、それが学校行政の安定やひいては個々の教育者の保護ともなりうる事を意味す

る。

つまり責任の明確化として示され成り立っている。

親や肉親だとそうはいかない。そもそも我が子や身内の子に責任を持つのは当然と

してあり、その生涯に亘る覚悟は学校や社会との関わりを超えた別次元の関係性と

してあり、これが人として家族としてのまずは原点として固く認識されている。


ここに損得や名誉に係る要素などは存在せず、それは個々や親子が社会と関わって

こそ初めて評価として生まれるもので、原点たる世界は親対子、子対親、という立

ち位置以外の何ものでもないのだが、現実には生まれた瞬間から、その子も社会の

大きな枠内に取り込まれている事を教えられ、親もまた一個人という自覚からその

日を境に子ども持ちという、大きな親たる立ち位置に立ってしまう。


つい先日まで想像や想定の域を出なかったことが、その誕生と共に明確に「親」と

して宣言しさせられる。

ここまで我が事においても未熟で未完成のごく普通の成人であった者が、その日を

機に新たな衣も羽織っては脱ぐ事を許されぬという自覚をもその肌に確実に感じる。

そんなあやふやで危なっかしい親でも、子は我が親として躊躇もなく付き随うし、

その覚悟たるやおそらく人の一生の最も理想とする純粋さで親として保護者として

認め頼り寄りかかる。



あやふやな親も年々歳々、仕事で付き合いで育児で家庭の維持で、少しずつ見識も

納得も拡がりその年数分だけ経験したと言葉にできるが、そこまでの経験の一コマ

一コマに迷いや恐れや痛みや情け無さや苦しさのあった事は決して忘れ去れるもの

ではなく、密かには歳をとること、経験を積むことには、我が身の心身の消耗をも

ってのみそうと成し得る事実に行き当たる。

まあそうそう悪いことばかりではないよと言い聞かせねばならぬことこそ、物事の

二面性多面性の露減の面白さを強調しており、我がと我が身に係ることには決して

避け得ぬ人として生きし有りようだと思い知らされる。


経験者は語る、経験を積むことに人生の甲斐をみる、経験失くして何の人生か、と

世に多くの励ましや応援はあるが、経験は痛みを伴うものだからこそ、その骨子た

るを我がものとすべき事なんだと敢て言うことも出来る。


そんなあれこれを暑い夜の眠れぬ間に考えていた時、卓にあった以前訪れた介護老

人施設の入居者からの封書を開けてみる。

その節の相談で、家庭の長年の問題の解決を見たことの報告とともに、「歳もとり

思いの通りの動きも出来ぬままに、この頭は未だ様々な世界を遊んでは苦しみ、楽

しんでは落ち込みしております。しかし先般『哲学とは』の『のぼかん講義』にお

いて、ああこうあることの、こう思い煩う事こそが、人として私としてごく自然な

事なのだと教えてもらい、深く深く心に入りました。『人間、長く生きれば誰もが

哲学者』と、隣人と笑い合いながら毎日を過ごしています」とあった。

こちらこそ彼のその心意気に胸が熱くなる。



生い立ちでも学歴でも経歴でも今の境遇でもなく、誰もが長く生きれば必ずや人た

るの結論を有し得心するであろうと言うこと。

我々は未だそこに届かぬ分、大いに我が身を削っては経験を積み、またそれの先の

何たるかを求めては艱難辛苦の世界に洗われては、また知る事に向かうと言える。


知らぬ事への不安しかなかった頃が、いつしか知る事だらけの中にあって心の落ち

着く事を目指しては、遠い昔の不安定という名の自由さや必死さを、とっくの昔に

失くしてしまっていることにも気づく。

まだ歳がいかない分、その事のすべてをどう解釈しどうまとめようかと思い何年も

彷徨っていたのだが、彼からの手紙ですんなりそのゴールは見えた。


『長く生きれば誰もが哲学者』



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