本文へスキップ




のぼりです


つれづれなるままに

今年も行く先々で、人と会うたびに、たくさんの思いが去来した。

たまに疲れて、時に励まされて、最後は教えられながらも、その足取りは変わらずやってこれた

と思う。

年の始めからその一年の終わりまでを、一つの区切りとしてそれを重ねては、今が何年、あれか

ら何年、そして私は今何歳などと、日常でそしてここまでの人生で確かめ比較しては、そこまでを

思いこれからにも思いを馳せます。


過去は過ぎ去りしものとし、そこに生むものは何もないけれども、これからを未来をと考えるとすれ

ば、過去あっての今日までの自分という事実に目を背けては成り立たない。

ならばときちんとそこを納得し得てその区切りと出来れば、過去に揺さぶられる事も少なくハタと

その先を見据えていけるのではないのか。などと、机上でも頭のなかでも想うのだが、日々の繁

忙は例え独り身であっても、なかなか容易にその落ち着きの時間を与えてはもらえず、家族の

多さにあってはホッとするのが寝付く布団の中だけ
では、考えようと思っても明日の仕事や喫緊

の課題を前にして、後で、いずれは、と先延ばしにするか、今が良ければそれでよしと言い聞かす

有様となる。


家族で互いをかばい合うような日頃の慣れがあれば、それは家族のお手本みたいな見つめ方も

あるが、伝統的な複数世代同居の風土にあっては、〇〇家人間としては、と自信とその裏付けを

持って語れるだろうが、それでも幾世代の間にはそこからはみ出す家族も現れては、私なりの価

値観の生活を築きあげる者も必ず出てくるし、社会の文化すらが今日のような核家族奨励、個人

世界の充実を最優先する傾向となれば、各々がそれぞれとしての価値観無くして、彷徨う将来を

恐れるようになる。


では以前のような多人数家庭が理想なのかと問えば、それすらが様々な良し悪しの要因を持ち

ながらの伝統であった訳だから、一度個人の価値観というテーマと向き合った人間が、おいそれ

と以前のような形態に戻るなんて事はあり得ない事だろう。

その分を未来の子ども達の為に、夢のあるやり甲斐のある社会作りを目指そうと、政治の世界が

唱えても、世は便利至上主義を逸脱した企業は立ち行かない運命にあるから、次から次に考え

たり迷う事なく取り敢えずの目的を果たす流れが大いに幅を利かす。


例えば親が泣きたいほどの試行錯誤して覚えた手料理を、娘に伝承したいと思っても、この時代

に生まれ生きたる娘に、まずその意味や価値を示すことからが大変で、日頃に親娘の信頼があっ

てこそでもなかなかその本意は伝え難い。

いずれ子がそれを必要とした時に覚えたらいいと言う考え方が、民主的な意見にも聞こえるが、

料理を習い教える前の共に台所に立つという所でしか伝わらない親の思いやそれを想う娘の気

持ちや、その目の前の作業や覚える事に潜む深い感性が、レシピはパソコンからピュッでは、落

胆を通り越して、社会の人類の未来にまでをも嘆く気持ちが頭を過ぎるかも知れない。


今が今をと見つめれば、今与えられて手にできるものが、幸せでベストとなるのもわかるが、もう

それは押し戻す事も、修正や抵抗を図るのも無理な事なんだよと、ここまでの年齢がなんとなしに

教えてもくれる。

こんな意見を述べると、では地区で何かを提議しましょうとか、学校や自治体に検討してもらいま

しょうと、世事に長けた方々は述べるが、それすらが既に我が手で我が家族でそれをという、先ず

は考えねばならぬ家族・家庭にあって実践しましょうという気持ちを忘れている。

そこを少し指摘すると、ああ本当だねとなるのだが、世に恐ろしきは世にある、という事で、いかに

世は世間は社会はと、その流れに乗り損ねる事こそが取り敢えずの間違いの如く、親も子もそこ

から外れる事を恐れる。

そのうちそのうちは、外の外で、いつか忘れる事となり、その主流たる流れをもはや降りられない

人ばかりになる。



アナログのデジタルのと人間性に当てはめてみることが、既におかしく、乳を飲みおしめを替えて

もらい、湯浴みさせてもらい、手を引かれ、頭を小突かれて、撫でられて育つのだから、人は元来

ひ弱で不器用で必死なものなんだと思い至れば、いかにも異次元の洗練された人間でござい、と

いうような恥ずかしい顔や生活ぶりをアピールするのは、やめたほうが賢い。


そんな綺麗事だ理想事だ、それとて仕事だから、そんな流れを起こしてあの産業この産業が、経

済の一翼を担うのだと、誠に正論も吐く。そんなひ弱な人間だから、考えては研究してより人間に

とって有意義な物をと、追求する姿勢こそが人間の人間たる使命でしょうとも反論される。

確かにたしかに、不器用で必死だからこそ、改善したり改良したりするから今の時代があり、これ

から先の課題も常に準備されている。


人類を前にしてそんな不遜な考えの人はいないですよと若者の話を聴く側で、ニュースがトランプ

大統領の不安定さや、核の脅威やテロの事件を伝える。

人心のありようは、落ち着かずとも止まらず。

何が正解で何が間違いでと問うても、その立ち位置でその価値は逆転する事もある。

せめて私の人生にあっては私自身に正直にありたいと願うが、そうと願ってもその答えはこれか

ら先にあるのだから、頭に不安の種があるのは当たり前で、それを笑い飛ばすような相手には打

ち明け話すらしたいとも思わない。

何が頼りで何を頼りにと思っても、結局は自分自身とわかるのは後々の事とはいえ、何かにすが

ったり頼ったりしなければ、私の事すら制御出来ない不安定さを覚えるのも、ああこれほど人とは

脆く複雑なんだなと知らされる。



後継者不足で悩む伝統技能の鍛冶屋の家にお世話になったおり、火場以外の様々な管理をパソ

コンに委ねてあるのに驚き、鍛冶屋の未来を熱く語る情熱と背中あわせに、伝えるべき資料やデ

ータ管理にはハイテクだと言い切る強さに圧倒される。

当事者が試行錯誤してそうと決断したのだろうから、そうなんだなと腹に収める。

人の心は過去と未来へとを行きつ戻りつで歳を重ねていくものよ、と誰かが言うが、それはそれで

そうだねと頷ける。


だが人の感情の常として、当然と今あることはその位置より動かず。むろん始めからそうあったも

のではないだろから、そこまでの物語を経て、今では当然となっているという事だろうが、そこを

終着や究極と意識できれば、そこまでの事としての満足と言えるだろうし、おそらくその周囲には

それが目指す目標や手本としても認知されてもいるだろう。


他方そこを目指して来たが、いざこうして立ってみるとまだまだ先は長く果ての見えず、と終わりな

き道のりを歩くことに人生を思う事もだんだん共通の話題となり、それゆえの昔からの今との比較

にまた思い至り知る事があるのかも知れない。


『限り有る命に芽生えては消え宿る果てなき思考の数々。愛おしくも持て余しては、またいつか

それをと待ち焦がれる』



さる茶店に立ち寄り、出された「灸まん」なる四国の銘菓を手に取る。

小粒だが見た目以上に硬く焼いてある。

少し冷めた濃いめの緑茶で喉を通す。

控えめな甘さに気分が和んだ。


一歩外に出る。見上げる空の何ものにも邪魔されない青の深さに見とれては、果たして何処まで

行けるのやらと、またしてもとりとめのない不安が襲ってくる。

吹っ切って目線を落としてゆっくり歩き始める。



このページの先

shop info店舗情報


newpage5.htmlへのリンク