本文へスキップ




のぼりです


桜並木

私の関わる経営者の会でも、人口知能(A I)の関心度が高まって来ている。

経営者の置かれている立場では、いくら好景気ぶりをマスコミが喧伝しても、現政府が強くその

安定ぶりを強調しようとも、そこに安穏とするような人はおらず、その立場にある以上は我が務め

責任の名において従順な人がほとんどだから、その勉強意欲は高い。


より収益性を上げる先にある経費削減、完成度の安定化を図れば、A Iの将来性に関心を持たざ

るを得ないと言うわけだ。

その議題の一段落したとき、子どもの未来教育とか日常の生活ぶりとかの話題になり、A Iが幅を

利かす時代になったとき、子どもの本質の変化があるのだろうか、などと質問が来る。

鬼の経営者といえどさすが人の子人の親、世相は受け入れても子への影響にはその意欲に矛盾

するほどの真剣さをみる。


問われ答えるのは「人の本質は変わらない、その本質にそれぞれの個性を載せて尚、その与え

られた、その選択した位置での情報や圧力に対応しながら生きるから、遥か先に今とは考えられ

ないような社会の変動があるとしても、人の本質は変わらないままにあるだろう」と答え、その理

屈や想定を内容を話し、その日の会は解散する。


現代にもはや欠かせぬインターネットの文化は、私の身の回りでさえ確実に浸透しており、言葉を

変えればそれを中心にして生活を送っているとさえ言える。

居ながらにして出来る、意思のやり取りや確認や、商品の注文や思う場所の風景や歴史さえ覗け

旅の予定も予算からコースまで自在であり、わざわざの労苦を完璧に省く事も可能となり、便利さ

が更にあれもこれもと拍車をかけて、時に自身や他の人の感情の捌け口にさえなり、顔が見えな

いからこその自由さや勝手さが罷り通る。


そこに無秩序の責任を求めても、制約として掲げれば人はその上それ以外の方法を考えつき、よ

く言えば可能性の追求の世界となり、他面、歯止めのない闇をも常に隣に感じることともなる。

居ながらにして得る知識は、その量や幅の広さゆえに、当然広く浅くとなり、それでも全てを網羅

した達成感は自身のみの充実感を否定はしない。


昔と今では、「知らぬ事」への捉え方は恐らく変わっており、脚を運び日数をかけてそれでも得る

かどうかは、わからぬままに挑み試した昔の疑問やテーマに対する姿勢は、今ではあらゆる検索

をかけ求め続け、それでも果たせぬものはすぐさま専門家のページを訪ねれば、待ち焦がれる間

も無く画面に得られる。


昔の金言の「自分で考えろ」も、今は答えを得るページを間違うなとなり、知りたい世界にやっとた

どり着けた満足感より、幅広くたっぷり知った量での自信と変わり、確かにその現実を私自身も知

ると便利でその無駄の無さには、なるほど一度で虜になる。


すると、昔のあの苦労はあの必死さはなんだか現代生活の片隅に追いやられてしまったかのよう

にも感じるが、しかし人は賢くてその芯は曲がっておらず、便利々くらいで変わるものでもなく、例

えば子どもが朝早くぐずりながらでも起きて、眠い目をこすりながらああ今日が休みだったらいい

のになと思いながらも、テクテク学校へ向かい、汗をかき寒さに震え雨をしのぎながらも、日中の

大半をそこで過ごし、下校の安心と宿題の小さな圧力を感じながらも、明日もまたこれを繰り返す

んだなと身体で納得の世界を少しずつ生み出し受け止める。

そこに世間が夢やお気楽さだけを囁いても、それの現実感の有無は小さいながらも慎重に響か

せての反応となるのも、実生活で身体を使ってその意思をフル動員して得た、ここまで成長した

現実がその判断に確実に影響していく。


だから今の子ども達は、私のその頃より遥かに沢山の情報やその影響の世界を見聞きした上で

当然としての身体的努力や葛藤の世界を有しており、ともすれば理論的で淡々とありながらも、そ

の意のありようは純粋無垢にその個性を載せていきながら、情報に正面から接する力を持ってい

ると言える。



私達が知った情報に一喜一憂していたのに比べて、何万倍もの情報量の存在を前に今の子ども

達は立っているという事だ。

だから身体的、精神的努力さえ外さず得ていれば、情報を前に少なくとも今の自分より遠距離の

世界にいきなり憧れる事もなく、自分を芯にして近々の情報を寄せては足していきながら、その

世界を徐々に引き寄せ手に触れていくと言えるのだろう。

賢さ云々より今はその過程を経て、自分の夢や憧れや希望としていくのだろう。

我々から見れば複雑で物知りで大人びてとなるが、子ども達にはごく自然な道程であるのは間違

いない。


こういう時代がやがて今より便利なというテーマではなくて、次世代の生活や生き方のスタイルを

また編み出していくのだろうが、過去も未来も「今、現在を考える」事から連なっており、我々の短

日の便利さの進歩を危ぶむ必要は全く意味しないと言える。

日々に目覚め、空腹を感じ満たし、笑ったり泣いたり感心したり怒ったりしながら、またこれを繰り

返しながら、その意味や価値や疑問をも知っていき、速さの有利さや不便さ、賢さへの憧れと不

安定さ、格好良さの自信とそれを維持する必死さの孤独感と、明るく楽しい仲間の有難さと窮屈さ

や、独り身の気楽さと不自由さ、親としての立派さを誇りとしながら、他との評価が気になり、成功

した喜びの翌朝から維持することへの不安が起こり、昔は想像さえしなかった老いの世界が去ら

ない事実に取り憑かれ、愛した昔を誇らしげに思い出すそばから聴こえる君のイビキにあれこれ

考えさせられては、「人の生きたるとは」と求められても深すぎて重すぎて、迂闊にも絶句しては

立ち竦む。


恐らくは皆が思い当たるであろう、「人とは」の自問の世界。

生きている間は、誰一人としてその答えの結末は見届けれぬはずだが、日々に生き今を生きて

の未来への連なりとなる事実にだけは逆らう事なく頷き続ける。

今更ながらと思われても、新たなる旅立ちに向けてと決心する側から、身の回りの現実があれこ

れと訪れては何かしら投げ掛ける。まったく持ってと苦笑いしつつも、慣れた世界の気易さがよし

これからと肩をいからす決心を、緩ませては撫で回す。


こうして今立つ位置よりの新たなる節はなかなか厄介にも堅いが、生きていればこそ上に上にし

かその道も選択もなく、毎日々自分を励ましては、そこより視線は外さぬ外さぬと言い聞かせる。

パソコンを開き調べ事をやり、気がつけば外はもう暗い。疲れた目頭を揉みながらため息をつく。

「おーい○○君」と下の道の辺りから呼ぶ声がする。レースのカーテンごとサッシをサッと開ける。

暮れたはずの夜道は数十本の桜並木になりそこだけ明るく鮮やかに桜が舞っている。


端の一本の桜の木の傍に学生服姿の幼馴染のK君が立って笑顔で手を降っている。その懐かし

さに、おーと思わず手振り返そうとした時、K君は二十代で亡くなったんだと気づく。でも今しか会

えないんだという気持ちがせり上がってきて大声でK君と手を振るが、声が出ない、腕が上がらな

い。なぜかとても悲しくて辛くて身悶えしている間にK君はスーッと消えた。桜並木も順々に薄れ

ていき、やがて道は普段の街灯の灯りがボンヤリ照らしているのみ。

穏やかで勉強も運動も得意だったK君とは、そんなに交流したわけでもなかったが、いい奴と考え

るときは必ず彼を思い浮かべていた。

幾度この情景を思い出しても、なんのつもりだったのか、なんのメッセージなのかと突き詰めて思

う事はないが、彼に応えられなかった悲しみだけはリアルに残っている。


生きていれば「不思議」で片付ける事もある。私にしかわからない事をあえて理屈付けたくない事

もある。不思議さは不思議と言うしかないし、わざわざ他に問うたりしようとも思わない。

俺は俺だと頑なになってみようとして、その背景は「のぼかん」でわかるんだなと気づいてはまた

可笑しくなる。

細かい情緒は敢えて知ろうとせずとも、私がなぜそう思いそうと感じるかは大概わかる。


わかるからこそ、笑おうが怒ろうが、泣こうが苦しもうが、そうある自分をそうと認める事が出来る

と言うこと。

良し悪しでも勝ち負けでもないところに立ってこその、その人の世界に迫れると言うこと。

ネットにはその人の真実は現れないのだ。



今は春休み。人っ気のない校庭沿いを歩いては、人の営みの長き時間と深さと広さが頭をよぎる。

ヒラヒラと舞い落ちる桜の花びらに足を止める。

見上げては、慰めか優しさかグッとくる。

そんな自分に舌打ちするがそれでまたグッとくる。

ハーと口を開け息を吐きだし、また歩き出す。



このページの先

shop info店舗情報


newpage5.htmlへのリンク